◆日本陸軍は山県有朋時代に
山県有朋
幻想は畢竟、幻想であり、最後の執行者はすでに徐々に面を現しつつあった。
山県は20歳の時、初めて老師の吉田松陰の口から将来の攻略の構想を聞いた。吉田は自ら「素狂」とか「言雪」と号し、典型的な武学の狂人であった。
1870年8月3日、欧州から帰国した山県は明治天皇の謁見を賜り、1時間余りの奉答の間、両膝を地につけて上体を伸ばし、すべての考えを述べた。25日後、山県は兵部少辅に昇進。1年後には兵部を司り、日本陸軍体系の創建に着手した。
同じ年、一手に准軍体系を創建した李鴻章は赫々たる戦功で最も実権のある直隷総督兼北洋大臣に栄進し、この地位に座ること25年、清朝において任期最長の直隷総督となった。これを機に李鴻章は日本と付き合うようになり、この年に来訪した日本の公使である柳原前光を接待し、両国の修好条約の交渉を開始。当初、日本を軽視していた李鴻章はやや後に、「日本は後に必ずや中国の身近な患いとなる」ことに気づいた。
果たして、山県は中日が約束を定めた翌年、「軍備意見書」の中で、中国を「仮想敵国」とすることを提起。第1次徴兵令を制定し、男子は17-40歳、3年現役に服し、2年の後備役及び2年の第2予備役を義務とすると規定した。日清戦争の開戦前、日本はすでに新式の陸軍22万人を擁しており、「皇軍」と呼ばれた。
この年から、日本陸軍は山県時代を迎える。山県は軍拡10年計画を策定し、アジア大陸への大規模な侵略に備えた。1880年、山県は数十名の将校・士官を中国の軍事視察に派遣し、最終的にこのような結論を得た。「強兵は富国の根本であり、軍備増強はすべてに優れる」