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急ピッチで進む北京の地下鉄網整備
発信時間: 2009-02-27 | チャイナネット

都市機能支える市民の足へ



北京の地下鉄の歴史は短いが、驚くべきスピードで発展している。1953年9月にはすでに、北京市全体の企画案に地下鉄建設が明記されている。当時の交通事情からすれば、なんとも贅沢な決断である。建国直後の北京の人口は300万にも達せず、自動車もたったの5000台あまりしかなかった。出かける時は徒歩か自転車で、バスに乗る人さえ少なく、地下鉄など夢のまた夢であった。しかも地下鉄を造るには多大な投資と高度な技術が必要であり、想像を絶する難題であった。ではなぜ地下鉄の建設にこだわったのか。

当時の地下鉄建設準備処の総技師長・謝仁徳さんの回想によると、「北京の地下鉄建設は完全に戦備であり、交通のためならバスを200台買えばすむ」と周恩来総理が一言で言ってのけたという。

戦備のための地下鉄

地下鉄2号線、毎日ラッシュは押し合いへし合いである


1965年、戦備のための地下鉄工事がとりあえず始まった。復興門近くに住む住民たちの話では、当時の地下鉄建設は戦備工事のため、建設は対外的には秘密とされていた。朝出勤時には道路の両側にポプラやヤナギの木が茂っていたのに、夕方家に帰る時には根こそぎ切られ、しかも鉄条網で囲まれていた。真夜中に帰宅した人には一体何が起こったのか全く分からなかったという。

1969年、数々の苦難を経て地下鉄の第一期工事(1号線)が終わりやっと開通した。当時の地下鉄は限られた範囲で見学が許されていた。地下鉄の試乗や見学は、職場がまとめて請求し、支給された見学券を持っていく必要があった。試乗した見学者のほとんどがとても感激して、「実に立派ですばらしい。駅ごとに柱の色や形が違うし、灯りの位置にも気配りが行き届いている」と褒め称えた。恐らく今の若い人たちには理解できないだろう。どこにそんな違いがあるのか分かるはずもなく、この古い地下鉄は「重苦しくてうっとうしい。どの駅もこれといった違いもない」という。

その後、30年間の北京の地下鉄建設は、自動車道路とは全く比べ物にならない牛歩の歩みである。1990年代の初めから、第二環状道路、三環路、四環路が相次いで開通したが、地下鉄は依然として80年代の「一直、一環(まっすぐ走る1号線と、環状線の2号線)」という2本だけであった。マイカーの急増により、都市の道路と交通が重荷に耐え切れなくなった時、人々はやっと都市にとって軌道交通がいかに重要かを知ることになる。

時代の変化――見直された地下鉄

2000年、地下鉄1号線が東へ2倍近くに伸びた。2003年、都市鉄道の13号線、八通線が相次いで開通した。回竜観、天通苑、望京、通州など近郊の団地の人々がやっと自動車道路の渋滞を避けて、地下鉄で通うことができるようになった。

13号線が開通した当日、どの駅にも人があふれていたという。北京初の都市鉄道に試乗しようと万を数える市民が詰めかけた。どの車両も超満員で、午後の3時から4時半までの1時間半で1万人近くの乗客を運んだ。13号線の沿線の住民たちはマイカーを使わず地下鉄で出勤するようになった。近郊に住宅を買ったものの交通が不便なため、住むのをあきらめていたサラリーマンがやっと新居に引っ越すことができたという話もある。地下鉄は今や市民の足になりつつある。

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