「駅弁」を改めて僕なりに分析すると、
1:お弁当という、日本独自の携帯食事文化と、
2:地域限定性、鉄道(旅行)というエンターテイメント時での消費タイミング、などが組み合わさったものだとおもいます。
このうち、携帯食事文化は、おそらくユニバーサルな文化で日本独自のものではありません。しかし、日本の「お弁当」がその他の国の近似した製品と異なっているのは、ワンパッケージに、主菜から副菜までがバランスよく多種多様に入っているところだとおもいます。その多様性は、欧米のランチボックス(Lunch Box)のようなものとは比較にならないものと思います。程度の差はあれ、日本の「お弁当」は品数が多ければ多いほど、高級感があるような気がしますし、その多様性をひとつのパッケージで携帯できるところが、「お弁当」の醍醐味だとおもいます。よって、ここでは、「お弁当」は、なるべく多くの品種が入った主菜副菜をすべてひとつのパッケージとしてまとめたものして扱いましょう。
ちなみに、僕が「駅弁」と「お弁当」の違いとして思うところとしては、「お弁当」は近代化とともに、そして市場の洗練とともに、大量生産工業化という効率化の経路をたどりながらも、手作りの雰囲気になってきているものとおもいます。「駅弁」というのは、少量生産手作りであるにもかかわらず、ある種標準化された機械的なパッケージをそのアイデンティティーとしてもっているような気がします。例えば良い例がデパ地下・コンビニの「お弁当」などは、実は機械によって、大量つくられているにもかからず、華やかで、まるでレストランや料亭で個別にだされる食事のようになってきているものですね。一方で「駅弁」はノスタルジーとともに、素朴な材料を本当に手作りで、地方のお弁当屋さんが少量でつくっているにもかかわらず、四角い素朴なハコで、バリエーションも1年を通して季節感をとりいれることなく一定の機械的なものです。そこに、アンティークフューチャーというか、ひとつ前の時代からみた未来というか、そういった「何か」を感じるところです。
続いて、地域限定性のある食事についてです。これも、ユニバーサルなもので、ある特定の地域の名産品や特殊な歴史をもって生まれた食べ物などは、世界のいたるところでみられると思います。オリジナルの場所が特定されているものでは、ザッハトルテもしかり(デザートまで拡張すれば、)、麻婆豆腐もしかりです。しかし、これらは、現在において世界のどこでも食すことができるわけで、これは、オリジナルの発祥地域は特定されていても、そこから世界の需要とともに、世界に流通しているものであって、地域の「限定性」はないといえます。通常の商行為における製品展開であれば、需要が拡大しているのであれば、「地域限定」はあまり意味のない束縛といえます。