郭暁勇氏プロフィール 1976年、上海外国語学院日本語・アラビア語学部アラビア語学科を卒業。卒業後新華社に翻訳者、編集者、ジャーナリストとして勤務。1980年から82年までクウェート大学に留学、アラビア語とアラビア文化を学ぶ。1985年から88年まで新華社ベイルート支局特派員。1991年新華社湾岸戦線報道チームの責任者として、湾岸戦争報道に携わる。2002年末より中国外文局常務副局長、中国翻訳協会常務副会長を兼務。
――多元的文化のコミュニケーションはメディアと切っても切れない関係ですが、翻訳もまた文化を跨ぐコミュニケーションの手段です。翻訳とメディアの関係をどのようにお考えでしょうか。
上海でまもなく開催される第18回世界翻訳大会のテーマは「多元的文化と翻訳」です。翻訳とメディアの関係はこのテーマと密接な関係があります。翻訳者も記者も最終的な使命は、人類の相互理解とコミュニケーションを促進するために人類の文明と文化を伝え、人類の社会文明の進歩と発展を反映させ、記録することです。特に文化が多元化している今日、翻訳者も記者もこれまで以上の困難と光栄な使命に直面しています。より多くの人々がニュース、出版領域における翻訳の役割を探究し、議論し、絶えず翻訳のレベルを高め、メディアの活動を促進する必要があります。
30年余りの経験からわかったことですが、海外特派員というものはまず現地の言語に通じ、現地の文化を理解することが求められます。海外特派員は良い翻訳者であるべきですが、単なる翻訳者であってはなりません。翻訳者であることは海外特派員の最低条件にすぎません。翻訳、通訳いずれにおいても「信、達、雅」の基礎の上に、ニュースに対して敏感であること及び優れた文章力が求められます。観察、分析、判断能力に対する要求はさらに高くなります。たとえば相手国の首脳を取材するとき、自己の理解のみに基づいて報道してはならず、もとの言葉或いは政府の公式文献にあたり、正確な翻訳をしなくてはなりません。
――ご自身のご経験とあわせて記者と翻訳の関係をお聞かせください。
1985年、レバノン南部の都市・サイダ近郊の小さな村に取材に訪れたときのことです。イスラエルが撤退したばかりで、まだ火薬の匂いが充満していました。そこの方言は思っていたよりもずっときつく、付き添ってくれたメディア担当省の役人でさえ聞き取れないほどでした。現地の人にさらに方言の通訳をしてもらうほかありませんでした。このときのことは忘れられません。いかに取材能力が高くても、現地の言語が理解できなかったら取材を進めるのは困難です。
レバノン駐在中には、ほかにも印象深い経験をしました。当時の国際社会では、ヒズボラの動向が非常に注目を集めていました。ヒズボラの精神的指導者であるフセイン・ファドラッラーが取材を受けてくれることになりました。私はアラビア語、ほかの2人はそれぞれフランス語、英語のできる3人の中国人記者で取材に行きました。非常に厳重な警戒体制で、いくつもの検問がありました。中に入ると、まず私が挨拶をしました。そのため彼は他の2人もアラビア語ができると思ってしまい、私の質問に直接アラビア語で答え、通訳する時間を与えてくれませんでした。彼はたっぷり2時間は話をしてくれたのですが、私は初めて同時通訳を経験しました。結果として取材は成功を収め、記事も好評を博しました。新聞記者たるもの、現地の言語の高い語学力を具え、これに精通していなくてはならないとこのときの経験で教えられました。
1991年の湾岸戦争のとき、国際社会は、ある西側の国が湾岸戦争後のクウェートの国際的な立場をどうするかに注目していました。ある公式の場で、私はその西側の国のある首脳を見送ったクウェートの外務大臣の近くに歩み寄り、アラビア語で質問しました。彼はその場でいくつかの質問に答えてくれました。アラビア語のわからない欧米の記者たちが注目する中、新華社は独占ニュースを手にすることができたのです。欧米諸国の同業者を非常に羨ましがらせることにもなりました。