──2008年は「中日青少年友好交流年」だ。楊元大使はかつて長期間、日本の青年向けの仕事に従事し、日本の青年との友好交流を展開していたと聞いているが、これについて、何か忘れられないエピソードや印象深い体験があったらお聞かせください。
私は過去、長い間にわたり日本の青年向けの仕事に従事し、中国共青団中央委員会と中華全国青年連合会で日本の青年との友好交流の活動を展開していた。だから、中日青年の友好交流に特別で身近な感情を持っている。当時の厳しい冷戦の国際環境の中で、中日両国は対立状態にあり、正常に往来できず、青年の交流活動を展開するのに次々と困難が重なった。しかし、双方の努力を通じて、私達はついに中日青年の交流の道を開拓した。
1957年の春、私は中国青年代表団のメンバーとして日本を訪問し、日本の青年たちからとても親切な接待を受けた。当時、私が日本の島根県を訪問した時にある人と知り合いになった。その方の名前は竹下登氏だ。当時、彼は中学校の教員で、また島根県の青年団の団長、島根県議会議員で、中国青年代表団の接待を担当していた。当時、私は29歳、竹下登氏は30歳過ぎぐらいだ。私達は会ってすぐに話がとても合った。主な共通の話題は、中日両国は永遠に友好的に平和共存すべきであり、二度と戦争してはならないというものだった。
31年後の1988年、私は中国駐日本大使として日本へ赴任した。この時、かつて中学校の教員であった竹下登氏はすでに日本国の首相になっていた。私は首相官邸へ訪問に行った時に彼と会うや、すぐにお互いに握手し、二人ともたいへん感動した。竹下元首相は私に、「私達は青年時代の友達です。31年後に、私は日本の首相として、あなたは中国の大使として、このような身分で顔を合わせるとは夢にも思いませんでした」と語った。私は「私達の青年時代の友情をたいへん大切にしています。私が大使の仕事を担当する間、首相閣下に私の仕事へのご協力とご指導を賜りたいと存じます」と述べた。竹下元首相はこれを聞くと笑って、私の仕事に協力してくれることを承諾した。その後、私が大使を担当していた間は、面倒なことがあると、いつも竹下元首相に直接相談し、ときどき電話でも相談した。竹下登氏が首相を辞めた後も私達は依然として連絡を取り合い、多くの難しい問題が、青年時代に知り合った旧い友人の協力により、適切に解決された。だから、私は身をもって両国の青少年の友好交流が非常に重要だと感じた。
取材が終わった後、楊振亜元大使は記者の求めに応じて、今回の取材に対し「為中日友好努力(中日友好のために努力する)」と揮毫してくれた。
「北京週報日本語版」2008年3月2日