九州で会った人々
吉野ヶ里で、徐福研究会の人々と
今回の調査旅行で私たちが泊まった学生アパートは、「玄南荘」という会社が経営していた。「玄南荘」の渕上高当社長は、たいへんユーモアがあって朗らかな人であり、中日交流を大いに支援している人でもある。「どうして中国が好きなのですか」と尋ねると、渕上社長は「四分の一、中国の血が流れているから」と明かした。父は中国で生まれ、祖父は満鉄の技師だったという。
この答えを聞いて、私はこんなことを考えた。当時の「大日本帝国」は、中国の東北部を植民地にし、中国人は今でも「満州国」という呼び方を嫌悪し、恨んでさえいる。これは明らかなことである。しかし、たとえこのような恨みと対立に満ちた土地の上でも、文化交流の花は粘り強く咲き、数十年後の今日でも友好の果実を結ぶのだ。
皮肉にも、現在の日本でもっとも中国に関心を持っている人は、かえって当時中国で過ごした日本の植民者たちや日本兵、彼らの子や孫たちであったりする。第二次世界大戦中に強制連行された労働者の訴訟のため中国の弁護団が日本に到着したとき、旧日本軍人の組織が弁護団のホテルの安全を保ち、右翼分子の妨害を防ぐため、自主的に行動したことを報道で知った。テレビ画面から、廊下に直立不動で、きちんと立っているかつての「鬼子(日本兵)」たちを見たとき、私は心中、さまざまな思いが入り混じった。いまになってやっと、私はその複雑な感情を本当に理解できるようになった。
もう一人、平戸の松浦博物館の木下昌弘館長のことにも触れておきたい。木下館長の先祖は、戦国時代からずっと平戸に住んでいた。博物館の中に展示されている昔の平戸の町並みの地図を参観したとき、思いがけず私たちは「木下姓」の邸宅を見つけた。木下館長は誇らしげに「これは私の先祖の邸宅です。私はいまもそこに住んでいます」と言った。
戦国時代、平戸は中国の海賊の頭目、王直の根拠地であった。その時代、もう一人の有名人が平戸で生まれた。国姓爺の名を明朝から賜った鄭成功(1624~1662年)である。彼は日本人とのハーフであった。