平戸で、私たちは木下館長に案内されて、多くの王直と鄭成功の遺跡を参観した。現代の平戸の人々が建てた鄭成功の小さな廟を紹介した木下館長の老いた顔に、何か悪いことをした子どものような表情が浮かんだのを見て、私は怪訝に思った。「あまりにも粗末な建物で、お笑いになるでしょうね」という館長の釈明に、私たちはかえって困惑した。
鄭成功は成人した後、平戸には帰ってこなかった。平戸に何か良いことをもたらしたこともない。しかし日本人は、この一中国人のために碑と廟を建てた。これは並大抵のことではない。おそらく木下館長から見れば、ここで生まれた鄭成功は、「身内」の人間なのだろう。
新しい中日交流史をつくろう
九州で過ごした日々、私は何度も感動した。この地の豊かな文化の息吹、心を込めて客をもてなす人々に感動したのである。引率の教官、滕軍先生が述べた言葉は味わい深いものだった。「私たちが今日ここへ来たのは、中日文化交流史を研究するためです。しかし同時に、私たちがまさに新しい中日交流史をつくり出していることを忘れてはなりません」
そうだ、私たちは、目的や時代は違っても、徐福や鑑真、朱舜水らと同じように、文明の花粉を伝えるという使命には、まったく変わりがないのだ。中日の文明の花が交配し、平和と安寧の実を結んでほしい、と思った。
「人民中国インターネット版」より 2008年7月10日