東京大学中国文学部教授 藤井省三
中国の『失楽園』が「東大ジェンコロ」に登場した日
2007年5月のこと、上野千鶴子教授が主宰する「東大ジェンダーコロキアム」で、中国の研究者が「中国における渡辺淳一の受容」という報告を行った。上野さんといえば世界のフェミニズム研究の第一人者であり、その等身の著書、つまり積めば身の丈ほどにもなる多数の著作のうち、『父権体制与資本主義』『裙子底下的劇場』などが中国語にも翻訳されてきた。ちなみに上野さんたちは同コロキアムを東大ジェンコロと略称している。
報告者は中国・ハルビン工業大学日本語文学系の于桂玲準教授で、谷崎潤一郎から村上春樹に至る現代日本文学を専攻しており、当時は東大文学部の外国人研究員として東京滞在中であった。その于さんの報告によれば、1990年代末以来、中国では2人の日本人作家が大流行しており、1人は『ノルウェイの森』の村上春樹、もう1人は『失楽園』の渡辺淳一、そしてこの2人にノーベル賞作家の大江健三郎を加えて、中国では現代日本の3大作家と称することもある、というのだ。
当時の私はちょうど朝日選書『村上春樹のなかの中国』という本を執筆中で――同書では中国における村上受容も分析している――、また大江が中国への関心を近年いっそう深めている点に注目して、「大江健三郎与中国」という講演を北京でしたこともあり、そして10年前の「失楽園ブーム」に際しては、北京、香港、台北各地の作家や文学研究者から、『失楽園』をどう思うかと問われるので、中国行きの機内で同書を一気に読み上げた経験もあり、于さんの報告には大いに共感を覚えた次第である。
于さんの研究によれば、中国において渡辺文学は80年代に一時紹介されたのち、90年代に過激な性描写が批判されて翻訳も下火になるものの、1998年に道徳小説として復活して大流行、2004年には上海の名門校復旦大学で「我が恋愛、我が文学」という講演まで行ったというのだ。たしかに読みようによっては、『失楽園』も不倫などすると家庭崩壊から変死の罰さえ受けかねない、と説教する道徳書として評価できるのだろう。于さんは中国のインターネットを丹念に検索し、自らの不倫問題を考えようとして、あるいはハウツー・デートの本として渡辺淳一を読む読者の本音も分析している。
それでは渡辺以外の「3大作家」、大江健三郎と村上春樹は中国でどのように翻訳され、読書されているのだろうか。