現代の日本を理解するためには二つの「M」が必要と言える。一つ目のMは漫画(Manga)であり、もう一つは村上(Murakami)である。
発売まもない『1Q84』の中国語簡体字版が中国国内でかなりの関心を呼んでいると聞く。この事で私は言いたいのだが、中国の読者の知る村上春樹は実体とかなりの開きがある―いったいどこにその違いがあるのか。それはその言葉である。
比較文学研究の角度から村上春樹の知名度上昇の秘密を解こうとする時、我々は彼の「内なるもの」と「外側」に注意を払わなければならない。所謂「内なるもの」は言葉である。「外側」は社会全体の文化、政治、流行・風潮といった要素で、言葉を用いる際のコントロールをする。村上春樹の最大の特徴は、まさにこの自らの内なるものを使って日本語の文体を変えていった点にある。
例を挙げてみよう。川端康成は誰もが知る日本文学史上の代表的作家であり、彼の使う日本語は純粋な日本語であり、通常主語が省略されている。『雪国』の冒頭部分の有名な文章、
「国境のトンネルを過ぎるとそこは雪国であった」
は、何がトンネルを通過したのか、馬車か自動車か、或いは汽車なのか川端は何も言っておらず、この点がまさに日本語の伝統的な表現方式なのである。
村上作品に戻って『1Q84』の冒頭部分を見てみよう。
「タクシーのラジオは、FM放送のクラシック番組を流していた」
ここでは最初から『タクシーのラジオ』という主語が明確に出されており、このような表現方法は明瞭でかつ正確、英文であれ中国文であれ翻訳をする際には大変都合が良い。それで中国の多くの読者は間違って村上春樹の言葉は大変きれいであると感じていると思う。実のところ伝統的日本語と比較する時、村上は全くきれいではなく、ただ単に翻訳する際に便利なだけである。
しかもまさに言葉というこの重要な内なるものゆえに、村上春樹は全世界の読者に受け入れられた。アメリカの文学雑誌『ニューヨーカー』の経験豊かな編集者デボラ・トレイスマン氏は古くからの村上ファンで、彼女は次のように言っている、「実のところアメリカ人は翻訳臭の強い作品はあまり好まないのだが、村上春樹の小説は翻訳後もほどんどそれを感じさせず、もとの言語で書かれた状態そのままであるかのようで、これが米国人読者に喜ばれているいちばんの理由である」と。(つづく)
文・毛丹青(在日学者)
(この文は毛丹青の村上春樹に関する多くの文章から精選したものである)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年6月18日