頭の中が真っ白になり、通訳に詰まっていると、周総理は、劉氏のメモ用のノートに素早く「阮玲玉」と走り書きした。さらに判読できないのを心配して、もう一度、丁寧に「阮玲玉」と書いてくれた。これを見て劉氏は無事に通訳すると、日本の代表団の人々はみなその名前を知っていた。
会見が終わった後、周総理は中国側の関係者を残して、こう指摘した。「若い人にはもっと歴史を知ってもらわなくてはならない。歴史は切断するわけにはいかない。歴史を置き去りにしては何も見えてこないからね」
◆エピソード3 通訳の不手際で中国の平和外交政策を引き出した
1959年10月25日、周総理は松村謙三氏一行と北京の郊外にある密雲ダムへ向かう特別列車の中で会談を行った。その席で松村氏は「中国がこのように発展していけば、恐ろしく大きな国になる」と言った。劉氏はこれを「中国は皆が怖がるほど大きな国になる」と訳してしまった。
それを受けて周総理は「中国はたとえ強大になっても、決して他国を侵略するようなことはしません。中国人民は百年来、外敵の侵略を受けてきました。その苦痛を他人に押し付けるようなことはどうしてできましょうか」と中国の平和外交政策をじゅんじゅんと説いた。
劉氏はその後、松村氏の「恐ろしく大きい」は「とても大きい」という方に重点があったのではないかと思い、責任を強く感じた。しかし「自分の不手際で、中国の平和外交政策を引き出した結果になったことは、まさに怪我の功名ではないか」と思っている。
「人民中国インターネット版」より 2010年11月25日