聞き手/在北京ジャーナリスト 陳言
商社が注目されている。2010年3月期には資源・エネルギーで異様なほど好業績を上げた。1960年代に流行った「商社斜陽論」、80年代に遭遇した「商社冬の時代」、さらに90年代から言われ続けてきた「Middlemen will die」(中間業者は滅びる)予言はすっかり過去のものとなり、新興国の勃興とともに商社は巻土重来を成し遂げ、むしろ2008年のリーマンショックで他の企業が苦しむなか、新たな全盛期を迎えたといえるだろう。
地域を中国に限って見てみると、日本で伝えられている好業績をもたらす原因は、必ずしも正解とは言えない。もちろん、資源・エネルギーを中国に提供している商社もあり、しかも決して収益の薄いものではないが、それが中国での主業務というわけではない。
資源、エネルギー以外の分野で新しい展開を求め、商社は全力を挙げて新分野の開拓に取り組んでいる。中国における三菱商事も新たな動きを見せている。同社の常務執行役員で、中国総代表、三菱商事(中国)有限公司董事長も兼任している木島綱雄氏に、三菱商事の次なる展開を聞いた。
「中国でものを作り、市場は世界」が
一つのトレンドになった
木島綱雄(きじま・つなお)中国総代表
「中国は全社戦略地域の一つに選ばれている」
――三菱商事の場合、1980年に北京で最初の事務所を開設して、1995年に三菱商事(中国)有限公司を設立しました。当初は機械プラントを日本から中国に輸出し、軽工業品と農産物などの日本へ輸入を中心に業務を展開してきた。その後、2009年12月には、中国第3位の人口と経済規模を持つ山東省政府との間で包括的な提携協議をし、山東省における環境、鉄鋼、食品、農産物などの分野で全面的な協力関係を結んでいます。その間、業務内容も大きく変化してきました。
初めは中国の原材料を日本に持っていく仕事が中心で、大慶油田の原油、食糧などを中国から買いました。一方、中国の重化学工業の発展に伴い、たとえば上海宝山製鉄所の建設、最近では唐山での製鉄所建設等、われわれは中国鉄鋼業の近代化には、ずいぶん協力してきたという自負があります。
――改革開放が進むにつれて、中国は重化学工業への投資とともに、生活財などのものづくりに励むようになりました。
90年代に入ってから中国の法律はずいぶん変わりました。合弁関連の法律が整備され、合弁企業がたくさん出てきました。また、2001年のWTO加盟後は輸出入に加え、中国国内での取引もわれわれ外資企業ができるようになりました。
ひとつの大きな変化は、90年代から出てきていました。設備、技術、原料などを中国に持ってきて高品質の製品を作り、その製品を日本に持っていき、最近では中国でも販売するようになりました。たとえば、ユニクロがその良い例といえます。デザインは日本でやり、中国では100以上の工場に委託して生産をしています。
中国企業も変わりました。株式市場が出てきて、ビジネス環境も変わりました。資本を株式市場から調達し、ものづくりに励み、商品は市場に溢れるようになりました。中国企業の機械設備などに対する需要は旺盛で、日本はどんどんそれを中国に輸出しました。また関連の技術も供与しました。
――-輸出入以外の分野でも、商社の機能を発揮していますね。
そうです。輸出入のみではなく中国で投資を拡大してきました。たとえば山東省では、日本のパートナーとともに、新鋭技術を使ってセメント工場を作りました。作ったセメントを外国に輸出もしたこともあります。「中国でものを作り、市場は世界」という方法は、徐々にひとつのトレンドとなりました。
消費者にもっとも近いところに商機あり
消費の変化に常に目を光らせる