仙台回想録 早期復興を心の底から願う

仙台回想録 早期復興を心の底から願う。 3月25日の人民日報海外版に掲載された海諾氏の記事「仙台を回想する」は、魯迅先生と仙台、そして仙台の地名の由来などについて、感動的に書かれたエッセイであり、中国人民の応援する気持ちの表れである。多くの日本人被災者に勇気をつけるため、タイトルを変えて日本語に訳した…

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発信時間: 2011-03-29 11:03:41 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

仙台“魯迅の碑”

「日本僑報」によると、3月25日の人民日報海外版に掲載された海諾氏の記事「仙台を回想する」は、魯迅先生と仙台、そして仙台の地名の由来などについて、感動的に書かれたエッセイであり、中国人民の応援する気持ちの表れである。多くの日本人被災者に勇気をつけるため、タイトルを変えて日本語に訳した。

私が初めて仙台という地を知ったのは、魯迅先生の「藤野先生」においてであった。魯迅は23歳の時に仙台へ行って仙台医学専門学校に入学し、藤野厳九郎教授の下で解剖学などを学び、教授の熱心な指導を受けた。「藤野先生」の中で、「彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれた一人だ」として、尊敬する忘れ難い日本人教師である藤野先生は、人々の記憶に残っている。魯迅先生の文章は自由闊達であり、形式張っていなくとも主旨は明確で、生活の一部を通して藤野先生の素晴らしい品格を描いている。また、仙台という街も深く印象に残った。

当時の仙台の街はそれほど大きくなく、魯迅は「藤野先生」の中で、「仙台は市であるがさほど大きくはない。冬はとても寒かった」と記している。魯迅が仙台で学んでいた頃は、仙台の人口は10万人に過ぎなかった。仙台は、冬は寒いがたくさんの木が生い茂り、緑豊かな歴史ある都市であり、四季折々の景色は美しく、青々と木が茂る中にかつての武家屋敷が残されている。また、秋保温泉や松島、秋保大滝などよく知られた観光地がある。

仙台の地名の由来について、唐弢先生が仙台を訪れた折、当時の仙台市長から伺った話が彼の散文「仙台之旅」に記されている。市長の話によれば、「仙台というのは中国に由来しているのです。もともとは“千代”と呼ばれていましたが、その昔、藩士の寄合いで“仙台初見五城楼”と唐詩を吟唱した人がおり、皆これを称賛したため街の名前を変えることになりました。世俗を超える仙人の住む山、天上の楼閣という意味です。それ以来、千代は仙台と呼ばれるようになりました」という。

仙台には、魯迅先生が当時通った仙台医学専門学校跡(現在の東北大学医学部)がある。かつての校舎は建て直されたが、魯迅先生が講義を受けた第六教室は保存されている。

また、仙台市博物館の前には1991年に除幕された“魯迅の碑”がある。東北大学片平キャンパスはかつての仙台医学専門学校跡地にあるが、翠緑の木の下には魯迅先生の銅像が置かれている。整った髪、蓄えられたひげ、思慮深い眼差しのこの銅像は、著名な彫刻家である曹崇恩先生が1992年に制作したものだ。

この他、仙台には魯迅が学んだ当時の下宿が保存されている。古い木造2階建ての建物で、当時魯迅が下宿したのは、竹中正雄氏の祖父の家だそうだ。竹中正雄氏はすでに亡くなっており、竹中氏の妻は88歳になる。

魯迅は松島へ足を運んだこともあった。「出了象牙之塔(象牙の塔を出て)・後記」の中で、「私は以前日本に住んでいた時、春は上野の桜を眺め、冬には松島で松の木と雪を眺めたことがあった」と記している。海と空が一体になった景色は、当時の魯迅にどのような記憶を残したのだろうか。

2011年3月11日、思いもよらぬことに仙台はこのような痛ましい地震と津波の災害に見舞われた。藤野先生のご子孫はどうしているのだろうか。竹中正雄氏のご子孫は無事だろうか。魯迅が当時学んだ教室は壊れていないだろうか。仙台が困難を克服して復興できることを心の底から願っている。(訳・岩本美佐子)

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月29日

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