1992年以来、彼女は前後して6回日本に行き、国際公聴会と主張大会に出席し、その他の9名の婦人と共に、その性暴力により引き起き起こされた障害に対して謝罪を行ない、同時に経済的賠償を行なう事を要求して、日本政府を相手取り訴訟を起こした。
彼女らを探し出し、出てきて話をする事を助けたのは、日本の石田米子女史が率いる「山西省内における中国侵略旧日本軍の性暴力の実情を明らかにし婦人たちと共に進む会」(略称「山西省明らかにする会」)等の日本の民間組織だった。彼女たちは1996年に活動を開始、山西省の農村で旧日本軍の中国侵略戦争時期に被害をうけた婦人たちを訪ねる事、十数年一日のごとくであった。
今回中国に急ぎやってきたのは、万愛花の病が重いと聞いたからである。病床の万愛花さんが山西大学の趙金貴教授に託して石田米子女史に言ったのは、「今回もう私は長くないが達成を望んだ事はまだ実現していないので死んでも心が残る、やはりこの老骨で戦いたい」という事だった。
経費や仕事の都合の関係で、今回やってきた日本のボランティアは多くなく9名で、多くは50歳以上の人だった。
病床で24時間酸素吸入器をつけている万さんは日本からのボランティアが入ってくるのを見るとすぐに手を差し出した。万さんがまず言ったのは「来てくれてありがとう、お帰りはいつですか」であり、皆を安心させたのだった。日本からのボランティアたちは交代で次々に病床の前に来て、万さんと握手をした。
石田女史が病状を尋ねたとき、万さんは手を挙げて二本の指を伸ばして何回も「私は退院したい…治療はいらない…毎日二、三千元もかかる…高すぎる」と言った。にごった二つの眼からは涙がだんだんと湧いて、言い終わると手を揺らし、右眼からは一滴の涙が頬を伝って枕に流れた。日本の女史たちの間からは低いすすり泣きの声が漏れ、ポケットからハンカチを出す者もいた。
「高すぎる、治療しなくていい」
話の間に万さんの養女李拉弟さんの二女が四角い弁当箱を取り出し、病院の門のところにあるスーパーで買った豆乳を箱半分に満たした。「粉ミルクは彼女は飲まずに吐いてしまう、それに粉ミルクは高いしね」と言う。
看護婦が見回りに来たとき、50mlの点滴液はまだ20ml残っていたが、万さんは抑揚のない声で「もうしなくていい」と言った。彼女は看護婦と家族にたびたびこのように言う。
李拉弟さんは思い起こして、万さんは入院以来、気持ちは「大変不愉快」で、ずっと「高すぎる、治療しなくていい、私はもうすぐ死ぬ事になっている」と言っていると言う。