震災に思う日本での記憶

震災に思う日本での記憶。 今回の地震による福島の原発事故は、最も私を驚かせた。なぜなら、日本の原発がこれほど深刻な問題を引き起こすとは考えもしなかったからだ。だが、私はやはり日本を信じている。この国は強大な生命力を持ち、一瞬のうちに美しく咲き誇る桜の花のように復興を遂げるだろう…

タグ: 地震 友だち 記者 天皇 荻市 市長

発信時間: 2011-04-10 10:36:10 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

文=コラムニスト・陳言

大学の専攻は日本語だった。卒業後は、中国国内で日本語教師として5年、通訳として2年働いた。1989年4月の東京大学留学の際には、ジャーナリズムを学ぼうと、学部に2年通ったが、その後、やはり経済学を学びたいと思い、慶応大学に転校した。

3月11日以降の何日かで、日本にかけた数十本の電話と数百通のEメールでようやく皆の無事を知り、安心した。考えてみれば、私の日本人の友達の数は、中国人のそれ以上である。

中国国内のマスコミが、日本の地震や原爆事故、そして国民生活等を大きく取り上げたことで、中国人の多くが、この隣国に関心を寄せ、敬意を持った。そして、私の十数年に渡る日本での生活で感じたことや些細な思い出も、それらによって呼び起こされた。

「天皇がいる限り、我々もここを離れない」

震災後、私は、東京の友人である吉川明希氏に電話をした。彼女は非常に冷静にその無事を告げ、地下鉄運休後の様子を話してくれた。延々と連なる人々が、数キロ、十数キロ、更には二十数キロ離れた自宅まで徒歩で帰った。東京周辺の道路は人で満ち溢れ、その両脇の民家には、「トイレ使ってください」「お茶をどうぞ」などの張り紙を外に出し、長距離を歩く人々のために、できる限りのことをしようとしている所がいくつもあった。

それは、私にとってすぐにイメージできる秩序整然とした状態で、まさに私のよく知る日本そのものだった。

吉川氏とは、知り合ってもう20以上の付き合いになる。1989年に東京大学で学び始めた頃、私は翻訳の仕事もしていた。彼女はちょうどその時、翻訳会社を立ち上げ、そこで二人は知り合った。以前、日本の有名な政治家である後藤田氏の秘書だった彼女は、日本の典型的キャリアウーマンで、常にエネルギッシュで情熱的、ひとたび怒らせると大声で怒鳴り、相手を罵ることもある。しかし、ここ一番の大事なときには、驚くほど冷静かつ理性的だった。

福島原発事故の後、私はやはり心配になり、吉川氏やその他の友人達に東京を離れる、或いは暫く北京に避難してはどうかと聞いてみたが、皆必要ないといった。最初はそれが良く理解できなかった。日本を離れないにしても、車で西の比較的安全な地域に行くぐらいなら、それほど難しいことでもない。なぜ、東京を離れないのか。後になって感じたのは、彼らが政府を信頼しているということだ。東京を離れない理由として彼らは以下の3つを挙げた。一つ目は、天皇がいる限り、彼らもここを離れないということ。二つ目は、日本の高官のような精鋭やメディア等でさえ留まっているのに、一般人が逃げ出す必要はないということ。三つ目は本当に何らかの深刻な事態が起きれば、真っ先に帰国するはずの東京軍事基地のアメリカ人も留まっていることである。

市長の2つの携帯電話

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