写真:4月13日、日本の東京電力本社、記者会見で頭を下げて謝罪する清水正孝社長(中央)と2人の副社長。
「地震も津波も天災だ。しかし、放射性物質の漏洩は人災だ」。3月11日の大震災後、心配で気が気ではない日本の友人は、原発事故の核心を突いていた。地震後に発生した原発事故について、確かに地震専門家たちはとっくに何度も強く警告しており、「原発震災」と呼んでいた。地震学を専門とする神戸大学の石橋克彦名誉教授は以前、「日本沿海にある50基以上もの原発は、常に地震による事故の危険にさらされている。『原発震災』はいつ起きてもおかしくない」と指摘していた。
なぞに包まれた原子力発電
1954年、当時改進党(自民党の前身)の議員だった中曽根康弘氏は突如、国会に原子力発電所を建設するための2億3500万元の追加予算案を提出し、そして、可決された。この急な動きに懸念を示した学界の有力組織である「日本学術会議」は、「原子力平和利用三原則」を発表した。原子力の開発・利用は平和な目的だけに限られるべきであり、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、公開されるべきだとする「民主・自主・公開」の三原則である。国会は翌年の立法の際にこの声明を採用したが、三原則を「成果の公開」とだけ記し、学界が指摘した「研究と開発過程」の「公開」と言う部分は削除された。
つまり、日本の原子力開発は最初から完全にオープンにされることはなく、不透明で秘密のベールに包まれていたのだ。この謎に加えて、戦後初期に原子力開発を支援していた政治家たちの背景を考えると、日本の原発開発の目的そのものが疑わしく思えるのも無理はない。
その後、中曽根氏は佐藤内閣で防衛長官を担当し、1980年代には首相になり、「戦後政治の総決算」を掲げていた。若い頃から原発の開発に熱心だった中曽根氏だが、目的がエネルギー不足を解決するためだけだったのかは、まゆつばものだ。1970年、当時防衛長官だった中曽根氏は最初の「防衛白書」を公布、日本が小型の核兵器を保有しており、法的にも違憲ではないことを堂々と主張した。