天津と青島はともに華北の要地であり、華北植民地の中心をどこに置くかで、日本軍上層部の意見は2つに分かれていた。それが、陸軍の主張する「天津中心論」と海軍の主張する「青島中心論」だった。七七事変(盧溝橋事件)後、天津港は日本が統治する華北地区で唯一爆撃を受けていない港だった。1938年6月、日本が制定した華北産業開発第一次五年計画では、青島港を中心とする山東資源開発計画は、その重点計画となっていなかった。
しかし、青島出張所の実権を握る海軍部が「青島中心論」を固持し、これをもって華北地区の発言権を奪い取った。青島港の修復や拡張、そして綿糸工場の再建が進むにつれ、青島の経済力や潜在的可能性が突出し、日本は青島の戦略的地位を見直すようになる。大規模な調査を行い、青島を中心とする「山東開発計画」等の戦略を打ち立てた。1941年末には、しだいに「青島中心論」が「天津中心論」に取って代わり、青島の戦略的地位はより多くの日本軍上層部に認められるようになった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月20日