日本人は普通の人と違うことに気をつかっても、自身の生活環境は大切にし、まるで変色する竜のごとく、周辺の人や物事の変化にはかなり気を配る。こうした文化・伝統のせいで、災害に向き合っても、平静に受け止め、落ち着いていられるのだ。また、日本人は一種「悲しみの美」といった芸術が好きである。毎年、桜の季節になると、落ち続ける桜の花のもと、酒を干しながら、ややもの悲しい歌を口ずさむのが好きである。日本人の昔から今につづく伝統だ。
こうした心理のせいで、本当に悲しくても、ずっと楽に受け入れる。西側の評論は「日本人にすれば、自殺は決して西側の者が考えるような罪悪ではなく、あるいは精神面でなにか病があるのでもない」と指摘している。数世紀にわたり、この国は一種「自殺は高貴である」という考えをずっと受け継いでいるのだ。
◇もの悲しい歴史的伝統
日本人は、死は一種の解脱であり、人が死んでも、家族や自身は悲哀すぎる必要はないと考えている。そのため、彼らは死に対して非常に平静であり、決して死を恐れない。日本では至るところで墓地と住まいが隣接している光景を目にする。
無情の地震と津波は自身や親族の生命をも呑み込んだが、幸にして生存した者は涙を流さなかった。彼らは記者に、目の前にある廃墟跡はかつて親族の生前の住まいだった、と静かに語るだけだ。だが、きびすを返し、立ち止まったその背中はむしろ尽きないもの悲しさを訴えているようだった。
記者は、日本人は「耐え忍ぶことを美とする」とはいえ、非常に多くのプレッシャーが蓄積されると、気持ちが高じたときに思わず極端な方法を選んでしまうことに気づいた。日本の歴史にはかつて、こんなもの悲しい伝統があったと伝えられている。人は70歳になると、自ら進んで山に行き、食べず、飲まず、世を去るのを待つ――。彼らにすれば、70歳を過ぎれば働く能力を失い、存在する価値がなくなるからだ。老人が自ら山に登らなければ、家族が背負って登る。この民間の伝説はこれまで2度映画化され、広く知られている。
2007年、日本のある大臣が一連の政治スキャンダルから首吊り自殺した。その後、ある政治家が大臣を「正真正銘の武士」だと称賛。自らの尊厳を守り、生命という代価を惜しまなかったからだ。
◇社会的圧力下の絶望