文=在中国ジャーナリスト 陳言
雑踏の上海市内から浦東空港に行き、さらに空港から20分ほど車を走らせると、トラックばかり走っている産業道路に出合う。空港工業区と称するテクノゾーンだ。1947年に岐阜で創業された森松工業は、90年に上海に出て、浦東新区では外資系企業の営業許可書の第1号を手にし、社員たった10人の体制で、幅広い分野で使われる工業用の圧力容器を作り始めた。その後、中国の経済成長の風に乗り、現在では現地で2300人の従業員を擁し、資本金が1.23億ドルの大企業に成長した。
現地企業や日米欧系企業が雨後の筍のように設立されるにもかかわらず、圧力容器は意外にも中国国内では品質のいいものが調達しにくかった。また、アフターサービスのノウハウも不足していた。そうしたなかで森松工業は、日本の生産技術をベースにして、圧力容器を作り、さらに本社では作らないものも意欲的に生産し、中国で新天地を切り開いた。現地企業ばかりでなく欧米企業のニーズも上手く取り込んで、中国の市場開拓をしてきた森松集団(中国)公司で、真田和明董事に話を聞いた。
1975年ごろから現地調査を開始
今や顧客の5割が現地企業に
――真田さんが受付と話をするときには、日本語や標準語のマンダリンではなく、地元の上海語でやりとりするのを聞いてびっくりした。
真田 そんなに地元の言葉が得意わけではないが、うちは、1975年ごろからすでに中国で工場を作ろうと思って現地調査をしていた。その後中国にタンクを輸出したりしたが、90年に上海の圧力容器製造企業と合弁で、上海森松圧力容器有限公司を設立した。はじめは現地企業が主に土地などを現物出資して、合弁企業の出資比率を3割にしたが、現在、その出資をほとんど我々が買い取った。形の上で出資比率は96:4となったが、実質の100%独資企業と思って結構だ。
――進出して20年あまりの間に、タンクの製造内容もかなり変化しているのではないか。
真田 確かにタンクと言ってもいろいろ変化してきた。90年代では主に貯水タンクを作った。ステンレス製タンクについては、森松は日本でナンバーワンのシェアを持っている。特殊の技術も持っている。しかし貯水タンクは中国のメーカーも作れるので、地元企業との競合が激しかった。それなら我々の持っている技術で他のものを作ろうと思い、化学プラント用タンクにシフトした。
――専門分野に入ったということか。
真田 違う。圧力容器の場合、原子力設備、多結晶装置、熱交換器、製薬設備、ファインケミカル、鉱山冶金、発電所の脱硫など幅広く使われている。現地企業だけでなく、外資系企業は中国でそのような設備を建設しているので、圧力容器を注文しようと思うときには、やはり技術を持っている企業に頼みたい。我々の出番だ。作りやすい貯水タンクだけ作っていたら、今日のような事業にならなかったと思う。
――主に得意先は日系企業なのか。
真田 日本への輸出、日本企業の得意先などはそんなに多くはない。製品の納入先は、現地企業がほぼ5割で、日本を含むアジアが25%、あとはアメリカへは25%となっている。中国に来ている以上、中国で新しい客先を開拓していくしかない。