40年前、あるいは第2次大戦が終結して間もないころ、中日の民間はどのように交流したのだろうか。当時、著名な社会活動家やメディア関係者が中国に来ることは決して多くはなく、中国に入って普通の民衆と交流できる数少ない日本の民間人士は常に「日中不再戦」とか、「世々代々の友好」といった理念を至るところで伝えた。戦争が終わってすぐのころ、人びとの戦争への記憶はまだ新しく、そうした心の内なる叫びは深く中日両国民の共鳴を呼んだ。こうした叫びがあったがゆえに、1972年の中日国交回復に向けて良好な民意の礎が築かれたのである。
「民が官を促す、これが中日国交正常化の実現で重要な推進力となった」。中国人民外交学会の黄星原副会長は国交正常化の特徴を説明した際、こう強調した。しかし今日、民が官を促すという様式はそのあるべき作用をすでに失ってしまった。数多くの日本企業が中国でビジネスに従事していても、中日の民間が東アジアの平和体制やエネルギーなどの共同備蓄、産業の分業、新技術の開発といった面で東アジアの新しい関係という概念、スローガンを打ち出したことはない。
民間交流に新しい概念がなければ、それぞれが利益を得ることが唯一の交流の目的となる。両国の一般人の間の理解は少なく、東京などの自治体の首長の声は、日本にもともとある「中国嫌い」という社会背景のもとで伝播の土台を築くようになった。中日関係はますます複雑怪奇と化し、対応する方法も少なくなった。中日国交正常化40周年にあたって、われわれはとくに、こうした民間の交流、民間の叫びが欠けていると感じられる。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年7月20日