日本の幼稚園や小学校の運動会に参加したことがある。私はそこで、車椅子に座った足の不自由な子供を見たことがある。先生が車椅子を押しながら、他の子供と一緒に「体操」をしていた。子供にうまくフラフープをさせるため、炎天下の中、先生はずっとしゃがんでいた。日本の幼稚園や小学校の先生たちもまた、「雷鋒」を学んだわけではない。駅職員と同様、やるべき仕事をしているだけなのだ。「人をいたわる」のは人間の前提である。「学生をいたわる」のは先生の基本条件なのである。私の子供が5才の時、私は彼女の幼稚園の運動会に参加した。運動会が終わると、子供たちは、自分の小さな椅子を室内の教室に入れる前に、まず椅子の脚を雑巾で拭いてきれいにすることを知っていた。
5才の子供たちも、その先生も、その母親も、「雷鋒」に学べと言ったことはない。ただし、自分のものは自分で責任を持つべきであり、自分のことは自分でするべきであることを求めていた。子供は「雷鋒」に学んでいるのではなく、人が成長するにあたって必要な常識を学んでいるのに過ぎない。ますしっかり独立して生きる方法を学ぶべきだ。それができなければ、大人になって人を助けることもできないのである。
その後、娘は小学校に入学した。いつものように小学校の運動会に参加した。運動会が終わると、5、6年生の児童たちが、1、2年生の児童のために重い椅子を運んであげていた。彼らは、みんなが運動場を退場した後もその場に残り、腰をかがめ、しゃがんで、すでにきれいになっているように見える運動場を再度検査していた。少しのゴミも残さないようにしていたのだ。これらの小学生は「雷鋒」を知らない。「雷鋒精神」が何かも知らない。彼らが何をしようとも、表彰されることはない。高学年の小学生としてやるべき常識のひとつでしかないのだ。