政治分析学者は現在の日本の民族主義を「新民族主義」という言葉で以前のものと区別する。1980年代の民族主義が一部右翼政治家による懸命な煽動の結果だったとするなら、いわゆる「新」は現在の偏狭な民族主義が一部の政治家、メディア、学者、そして多数の国民の大合唱である点にある。(文:楊子岩。人民日報海外版掲載)
A級戦犯の位牌を祀る靖国神社は日本と隣国との間に横たわる敏感な地帯だ。日本の政治人物が靖国神社を参拝するたびに、周辺国に強烈な反応を引き起す。だがこうした反応はかえって日本の政治家にしばしば利用されている。これによって国内の偏狭な民族主義感情を煽り、右翼勢力は国に強硬姿勢を改めて呼びかけ、政治屋はより右傾的な行動に出る権力を与えられるのだ。まさに悪循環である。
今回の春季例大祭でも同様の循環が見られる。安倍晋三首相は「内閣総理大臣」の名で靖国神社に「真榊」と呼ばれる供物を奉納。麻生太郎副総理は自ら参拝に行き、国会議員168人が集団参拝した。これらは小泉純一郎氏の行いに従ったもののようだ。小泉外交の最大の功績は、民族主義の「合理化」と引き換えに隣国との関係を長い間冷え込ませたことにある。
こうした「強硬」姿勢は「日本は十分に強大であり、他国の抗議の言いなりになることはない」との印象を確かに与える。だが、これは表象に過ぎない。深いレベルの問題は、日本は強硬姿勢によって自らの「弱さ」を覆い隠すことしかできないということだ。
敗戦後の日本に防衛権はなく、経済大国に相応の国際政治上の地位もないうえ、低成長が20年余り続いた。これらによって日本人は「日本は世界で競争力ある強国としての役割を演じる準備がまだできていない」との島国心理をさらに深めた。