当時筆者が教えていた、日本に来たてで日本語が分からない留学生たちも、たいてい同様な感覚を持っていた。日本の上司や同僚の関係も、得体のしれない恐ろしいものだ。筆者が職員室で遭遇したときと同様、彼らもアルバイトの身分で正社員と心理的には同様な立場で接しようとするが、そこで日本社会から手痛い仕打ちを受けてしまう。この社会に対する不理解が原因で傷つき、その痛みが体に残り続け、消えることがない。
茶は、中国では泡立てて飲む。日本では茶葉を茶こし網に入れた後、お湯を入れる。冷まされたお湯で飲むお茶は、いい香りが漂ってくる。これは規則化されており、守らない人は規則を知らない人と見なされ、日本社会で蔑まれる。
規則を守ることに関して、日本は非常に厳しい。
筆者は日本である人に出会った。ある高校の校長で、もともとは物理教師だった。しかし中国古典詩歌の熱烈なファンで、詩の会を結成した。彼は筆者も参加するように促した。その活動に行ってみると、一冊の『韻脚大成』が置かれており、メンバーが詩を作るときはこの本をみて韻を踏んでいた。日本語の漢字と中国語の漢字は音が異なる。全く新しい詩を作るときは、唐代に作り出された韻脚で詩を作らなければならず、大変な作業となる。漢学者でもない詩の会のメンバーが一字一字、文字を探して詩を作っているのを見て、詩作りの大変さを垣間見た。
筆者の学生時分は、文化大革命の時代だった。封建的だったり資本主義的だったりする文章を、学校は学生に読ませなかった。詩詞に関しては全くチンプンカンプンで、中国にたくさんの詩人がいることすら知らなかった。ある人が尋ねた。中国ではこれほど美しい律詩や詞曲があるのに、どうして君は知らないのか。筆者は文革を挙げて説明するのができず、ただ「自分はわかりません」と言うしかなかった。しかし当時、日本人は何をやるのにも常に真剣で、規則をしっかり遵守するのだ、たとえそれが趣味の世界でも変わらないのだと思った。