伊澤弥喜太の長女、釣魚島は中国領と証言③証言の詳細

伊澤弥喜太の長女、釣魚島は中国領と証言③証言の詳細。

タグ: 伊澤弥喜太 長女 釣魚島 中国領 古賀辰四郎

発信時間: 2014-01-20 14:12:27 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

 

伊澤眞伎氏の証言文書の写真。

 

伊澤弥喜太の長女、釣魚島は中国に返すべきと主張

伊澤弥喜太の長女である伊澤真伎は1901年2月に黄尾嶼に生まれた。伊澤真伎は1972年1月8日に口述した内容を毛筆で代筆してもらい、「尖閣列島についての証言」を記録した。伊澤真伎はその中で、父の伊澤弥喜太が1891年に初上陸し開発したことを明かし、かつ釣魚島は「その故郷である中国に返還すべき」と明確に指摘した。筆者はここで、証言の訳文の一部をここに掲載しよう。

「私は尖閣列島(訳注:釣魚島列島)の黄尾島の古賀村に生まれた。父は井澤弥喜太(訳注:伊澤弥喜太であるはずだが、口述のため記録に間違いがある)。父は古賀辰四郎の業務主任を努め、同島でかつお節工場を経営し、アホウドリの羽毛や貝殻などを集めていた。現在は新聞などにより、古賀辰四郎が初めて同島を発見した人物とされているが、これは真っ赤な嘘であり、絶対にありえないことだ。なぜなら父が明治24年(1891年)に魚釣島(釣魚島)、黄尾島に漁に出かけ、海産物を捕獲しアホウドリの羽毛を集めていたことが、文書によって記録されているからだ……(中略)父は上陸後に調査を実施し、洞窟内に中国の服を着た骸骨を発見した。今思うと、父が上陸する前に、中国人がここを訪れていた可能性があるようだ。父と古賀辰四郎が知り合ったのは、当時豊かだった古賀が父に対して、『あなたの沖縄の事業は資金が必要だから、協力しようではないか』と持ちかけたからだ。古賀が出資したため、名義上は古賀のものとなったが、すべての実務は父に全権委任されていた。古賀もまた、父に現地の自由な経営を許可したと話したことがある」

「古賀が明治28年(1895年)に政府に提出した開拓申請書には、明治17年(1884年)に発見されたと記されていた。これは古賀が弁護士に委託し捏造したもので、絶対に事実ではない」

「父が同島嶼を発見した時に、すでに中国人の遺体があった。当時の日本政府もまた、中国が同島嶼に命名していたことを知っていたが、その後日清戦争(訳注:甲午戦争)により台湾と同時に盗みとり、明治29年(1896年)に正式に日本領に編入させた」

「日中両国は良好な関係を築くべきであり、その際に日本が先占していたと無理な主張をするのは間違いだ。日本は敗戦時に、台湾と同時に盗みとった島嶼を中国に返還すると約束しており、尖閣列島(訳者注:釣魚島)は当然、その故郷である中国に返還するべきだ」

伊澤弥喜太は最も早く釣魚島に上陸し漁をした日本人であり、その長女が釣魚島を中国領であることを証明した。そのために、日本政府は伊澤弥喜太について触れず、古賀辰四郎を大々的に表彰したのかもしれない。

しかし古賀辰四郎が釣魚島の開発権を得たことは事実上、台湾を植民地支配していた当時の日本による、釣魚島に対する植民地開拓である。1945年に日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏を宣言した時に、その海外の植民地開拓のすべての権利が終了したはずだ。(筆者:劉江永 清華大学現代国際関係研究院副院長)

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年1月20日

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