1971年の『群星』掲載の、1905年前後に撮影されたと思われる伊澤弥喜太(2列目右から4人目)などの写真。 |
初めて上陸し出漁した日本人、伊澤弥喜太
伊澤弥喜太(1853−1914年)は熊本県に生まれ、甲午戦争の前に釣魚島に出漁し、甲午戦争後に釣魚島の植民地開発を実際に担当した。その後は経営破綻により台湾に移り、大正3年(1914年)の61歳の時に、台湾の花蓮で亡くなった。
明治33年(1900年)11月、宮島幹之助は日本の「地学雑誌」第143巻に掲載された「黄尾島」の中で、「黄尾嶼に移住した伊澤弥喜太によると、明治24年(1891年)より琉球の漁民を連れて、釣魚島・黄尾嶼で海産物とアホウドリを捕獲していたという。当時の航海には小舟や伝馬船しかなかったため、島に長く滞在することができず、石垣島に戻るしかなかった。明治26年(1893年)に再び上陸し、帰路で台風にあい福州まで流され、九死に一生を得た。その後の明治29年(1896年)、古賀辰四郎が十数人の漁民を連れた伊澤を雇い、同島に向かった……」と記している。伊澤弥喜太の1891年の上陸および「開発」の行為は、個人が中国の無人島に上陸して実施した密猟であり、国際法の定める「先占」にはならない。
沖縄通信社が1971年8月29日に創刊した「群星」の第一号は、伊澤弥喜太の長女である伊澤真伎の、甲午戦争後の父と古賀辰四郎による無人島開発協力のインタビューを掲載した。伊澤真伎(故人)は、「甲午戦争の時に父の伊澤弥喜太は軍医だったようで、その後那覇市に移住し医師として生計を立てた。甲午戦争から間もなく、八重山の十数隻の三井物産の漁船が事故にあった。伊澤弥喜太は医師として救助船に乗り出港し、この無人島にたどり着いた。しかし当時はこれらの島嶼が清国のものか日本のものかが不明であったため、伊澤弥喜太は直ちに九州に戻り政府と連絡をとった。政府からは、日本領という回答があった。そこで伊澤弥喜太や古賀辰四郎ら3人は話し合いの結果、開発申請を提出することを決定した。伊澤弥喜太には資金がなかったため、古賀辰四郎が出資した。そのため島嶼の権利は、名義上は古賀辰四郎のものになる。しかし古賀辰四郎は島に定住し開発に従事しなかったため、開発事業を伊澤弥喜太に委託した。これらの島嶼が、古賀辰四郎によって発見されたとは聞いたことがない」と振り返った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年1月20日