3月10日は第二次大戦中の東京大空襲の70周年記念日で、東京の各地で追悼式が執り行われた。安倍首相は日本の政治の慣例を破り、首相として同日の追悼活動に出席した。日本の首相が東京大空襲の犠牲者の追悼活動に出席するのは、これが初めてだ。「環球時報」が伝えた。
安倍首相は法要で、「悲惨な戦争の教訓を深く胸に刻み、世界の恒久平和のために貢献していく」と述べた。安倍首相は日本が発動した戦争について、「侵略」などのキーワードを使わなかった。世界の世論は、「安倍首相は日本の第二次大戦中の被害者としての立場を強調し、日本国民が戦争で悲惨な境遇を強いられたことを強調しようとした」と結論づけた。
東京大空襲は約10万人の日本人が命を落としたとされている、歴史上最も激しい通常兵器による爆撃だった。米ナショナル・インタレスト誌(電子版)は、「米国は日本の歴史修正主義に驚くべきだ。日本帝国が第二次大戦の被害者であるならば、東條英機ではなくトルーマンが戦犯になる」とする記事を掲載した。
今年は反ファシズム戦争勝利70周年だ。日本は毎年、原爆や大空襲など戦争によって苦しめられたことを記念する、一連の活動を実施している。これは日本社会の悲しみを深め、日本人の第二次大戦の是非に対する独自の認識を強めている。日本人の侵略戦争に対する全体的な反省は、糸のように細く頼りなくなっている。世界の反ファシズム記念と逆行する新たな活動により、この細い糸はまた何本か切られてしまうだろう。
日本列島の平和と戦争に対する価値観は、世界共通の認識から大きくずれている。日本は確かに、この点に関してはガラパゴス化している。日本人の第二次大戦で苦しめられたことに関する多くの描写、他国の侵略の罪に関する通り一遍の言及に対して、世界の人々は驚き、憤り、反応に困っている。日本の現代化は至る所で国際的な風格を示しているが、なぜ歴史問題になるとこの社会はかくも異常で頑迷になるのだろうか?