「岡村寧次の手はずっと震え、判もずれたほどだ」警衛参謀だった王楚英さんは70年後も、日本軍の中国戦区における降伏式の光景を、昨日のことのように覚えている。
1945年9月9日、南京中央陸軍軍官学校の大講堂は、最も重要な時を迎えた。中国を侵略した日本軍の岡村寧次総司令官が、ここで中国政府に降伏文書を提出した。
王さんは当時、降伏式の内外のセッティングを担当していた。王さんは、中山東路黄埔路口から講堂までの1200メートルに渡り、50メートル置きに旗ざおが立てられ、中国、米国、英国、フランス、ソ連の国旗が掲げられたことをはっきりと覚えている。旗の下には2名の憲兵、2名の新六軍武装兵士が立ち、大講堂の入口まで続いていた。
王さんは記者に対して、「午前9時、岡村寧次は降伏式で『岡村寧次』と署名し、判を押した。当時現場にいた1000人以上の人は、岡村の手がずっと震えているのを目にした」と話した。
降伏式はわずか20分だったが、重大な意義を持つ。王さんは当時の心情について、「私たちは8年間に渡り血を浴び奮戦し、団結し心を一つにし、最後に勝利を手にした。これは全中華民族の勝利であり、全世界の勝利でもある」と意気軒昂に語った。
王さんは1923年に湖北省黄梅県に生まれた、中国遠征軍の元兵士だ。王さんは1945年8月に昆明の米軍参謀指揮学校で訓練を受けた。王さんは「8月上旬の夜、私たちは講堂で映画を見ていた。9時半頃に米国の教官が駆けつけ、『朗報だ、日本が降伏したぞ』と大声で言った。講堂が大騒ぎになり、叫び声があがり、全員が帽子を高く飛ばした」と当時の光景を振り返り、興奮を隠せなかった。
王さんは、「私は酒を飲まないが、あの日は飲まされ酔ってしまった。昆明の街頭は泣いては抱き合い、太鼓や銅鑼を鳴らす騒ぎとなっていた。市民は眠っていたが、私たちに起こされ太鼓や銅鑼を鳴らし、爆竹で祝った」と振り返った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月12日