西洋の学者の中には20世紀にはすでに、西洋中心主義を批判し、中国問題の研究にあたっては中国の視点を重んじる必要があると主張する者がいた。しかし第2次世界大戦終結から70年が経った今も、西洋社会には依然として、中国の抗日戦争の意義を過小評価する見方が残っている。その表れの一つは、日本軍国主義の好戦性と凶暴性を理解しようとせず、東洋社会の歴史の特殊性を理解しようとしないということにある。日本が侵略戦争を発動した独特な軌跡を振り返ることは、「彼を知り己を知る」ことを助け、中国人民抗日戦争と世界反ファシズム戦争との関係を正しく判断し、中国の抗日戦争の偉大な歴史的意義を認識することにつながるだろう。(文:徐勇・北京大学歴史学科教授)
一、中国人民は好戦的な軍国主義の強国に率先して反撃した
中国人民が抵抗し反撃した日本軍国主義は、世界大戦におけるファシズム側の重要な役どころを担っていた。日本は一体どのような国だったのだろうか。戦後、日本防衛大学学長を務めた猪木正道氏はこう述べている。「ヒトラーの第三帝国は純粋な意味での軍国主義国家ではなく、軍国主義を超えた全体主義であったというべきだろう。伝統的な軍人貴族のほとんどは、ヒトラーに対する抵抗運動の中心となった」。日本については一方、こう結論付ける。「大日本帝国を軍国主義とするのに疑いの余地はない」。猪木氏によれば、日本軍国主義の好戦性は、ナチスドイツよりも軍国主義の典型的な特性を表している。近代日本の対外侵略の歴史もこれを裏付けるものだ。1868年の明治維新以降、1945年の敗戦と降伏まで、日本軍国主義は5年から10年の周期で、周辺国への侵略戦争を繰り返した。兵力の動員の頻繁さや規模の大きさは、世界の近現代史においてほかに例を見ないものである。このような侵略戦争の歴史を、日本の右翼の著述家は「百年戦争」と称してはばからない。
中国では1920年代、第一次国共合作によって発動された北伐戦争が北洋軍閥の統治を打ち倒した。日本軍国主義は中国の発展と統一を恐れた。当時の関東軍参謀であった石原莞爾は、「中国国民の民族運動と国権回復運動は自然な流れである」と考え、「統一は成功し、その国力も集結していく」と予測した。
日本軍国主義は中国東北地区を「日本の生命線」と捉え、中国の東北問題をその世界政策と結びつけ、この地区は「四方に天然の障壁があり、戦略拠点を自ずと形作っている」と考え、「まずはここに下がって国力を養い、兵馬を整え、時機が熟した後、猛然と踊りかかり、天険を越え、中原に侵入する」ことを目論んだ。さらに米英と「天下の覇権を三分」し、満州と蒙古を奪えば、堅固にして揺るぎない土台を固めることができると考えた。日本の戦争予算によれば、鞍山の鋼鉄や撫順の石炭やオイルシェール、林木などの財源を支配すれば、毎年3億円は十分に提供でき、「自給自足だけでなく、帝国の戦争の支援もできる」とされた。
このような戦略情勢の判断と日本軍部の拡張需要に基づき、日本軍は九一八事変(満州事変)を発動し、中国東北地区を侵略・占領した。中国侵略戦争の発動は、日本国内の戦争体制の強化を刺激した。1936年の二二六事件の発生により、日本の国家権力は最終的にファシストの統制派軍部の手に落ちた。軍部は、「帝国国防方針」と「用兵綱領」を再び改定し、「五相会議」を通じて「国策の基準」を制定し、「根本国策は外交国防相俟って東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展するに在り」と規定した。このようにして全面的な中国侵略とアジア太平洋地域に対する北進・南進の侵略国策を確定した。
日本軍国主義の中国侵略戦争は、世界的な連鎖反応を招いた。日本はその後、1933年に国際連盟を脱退し、1934年にワシントン海軍軍縮条約を破棄した。1936年には、日本とドイツが「共産『インターナショナル』に対する協定」と附属議定書を締結し、1937年11月にはイタリアがこれに加わった。日本軍国主義はドイツ・イタリアのファシズムと手を携え、東洋と西洋いまたがる最も危険な世界大戦の策源地となった。中国人民抗日戦争は当初から、世界平和を守り、世界の公理と正義を守る崇高な意義を備えていたのである。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月20日