中国の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争との関係②日本の北進・南進の政策決定から見える中国の抗日戦争の意義

中国の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争との関係②日本の北進・南進の政策決定から見える中国の抗日戦争の意義。

タグ: 抗日戦争 世界の反ファシズム戦争

発信時間: 2015-08-20 15:15:32 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

第2次大戦を専門とする西洋の歴史学者の一部は、中国の戦場の地位をことさら低く見積もり、中国の戦場を太平洋の戦場の付属とみなす傾向にある。だが事実からわかるのは、日本は海空の精鋭部隊を太平洋の戦場に集中させていたものの、戦争の基本的な目標や戦略的な地位などから考えれば、中国は依然として東洋の戦場の重心であり、日本軍の主要な戦略目標は中国を侵略し、呑み込むことにあったということである。

日本は、北進・南進を並立させる国策方針に従って、1937年に七七事変(盧溝橋事件)を発動した。中華民族は、中国共産党が呼びかけた抗日民族統一戦線の旗の下に団結し、苦しい全国的抗日戦争を展開し、短期決戦をねらった日本軍の目論みを挫折させた。日本軍部は、「昭和十三年秋季以降対支処理方策」などの策略を制定し、中国に対する全面的な戦略封鎖を実施した。日本軍の侵攻ラインは、中国の輸送ルートをめぐってインドシナ半島へと広がり、包囲攻撃の実現が目論まれた。1939年、ドイツがポーランドを侵攻すると、日本の戦争意欲は大きく刺激された。この後の2年余り、日本の軍部と政府の高層は、ソ連極東地区への北進か、東南アジアと西太平洋への南進かの戦略の選択で揺れ続けることとなる。最終的には、戦争において必要が逼迫していた石油やゴムなどの戦略物資を略取するため、日本は1941年12月8日、太平洋戦争を発動した。

日本軍はこの間、正面の戦場における冬季の攻勢と、華北の戦場における八路軍の百団大戦に直面した。1940年7月27日、大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を制定し、中国事変の終結にまず重きを置くことを強調した。ドイツ軍が大挙してソ連を侵攻したことにより、軍部では北進派が一度は台頭した。だが参謀総長の杉山元は、日本が中国に展開する兵力は大きく、北進は事実上不可能だと強調した。翌41年7月2日の御前会議では、「帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め」るとの決定がなされた。

同年10月16日、東条英機内閣が組閣され、「総体戦」の独裁体制がついに確立され、「南方に進出致しまして重慶政権を背後より支援し其の抗戦意志を弥が上にも増長せしめつつある英米の勢力と重慶政権の連鎖を分断致しますることは事変解決を促進する為極めて必要なる措置と考えらる」との戦略方向が規定された。作戦部長の田中新一は説明している。「支那事変の解決は、ただ欧亜を綜合した国際大変局の一環としてのみ、これを期待することが出来る」。

上述の決定が示しているのは、日本が中国侵略戦争の危機的な局面において北進を放棄し、太平洋戦争を発動し、英米に宣戦布告したのは、追い詰められた獣が暴れたようなものであったということである。ここで重要なのは、中国の軍隊と人民の粘り強い抵抗が、その既定の戦略計画を乱し、日本を中国の戦場において苦境に陥れたことである。日本の戦略研究家が分析しているように、「対中戦争の指導的地位は、運命を南方に託すという従属的な地位に引き下がり、本来の性質を失った。対中戦争はその指導的地位を放棄するしかなくなった」。中華民族が力を合わせた抗日戦争は、日本の戦略的な企図を根本から挫折させたのである。

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月20日

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