欧州の戦場における反ファシズム戦争においては、参戦各国の多くは先進工業国であった。だが中国の抗日戦争は、中国人民が本国の国土において、自然・経済の遅れた条件と比較的貧弱な武器を便りに、独特な戦略・戦術を編み出し、工業国である強敵に対抗した戦争であった。中国人は自らの尊厳を守り、自らの勝利を勝ち取ったのである。しかし人々は、西洋の空と海との近代兵器と大編成の部隊による戦闘を標準とみなし、中国の戦場には見るべき場面は少なかったと考え、中国の抗日戦争の価値を低く見積もりがちである。物事を見て人物を見ず、場面を見て計略を見ないこうした見方は、軍事科学または軍事技術の角度から言えば、極めて浅はかなものであると言わざるを得ない。
当時の血なまぐさい戦場において、世界最強の軍事力を誇った戦争発動者の側でさえも、その侵略の失敗をしばしば認めている。日本軍の最精鋭戦略集団とされた第十一軍の岡村寧次司令官は、日本軍が武漢や広州などの広範囲の要地を攻略した後、中国との正面作戦においては、敵軍の抗日勢力の中枢と中国軍隊の「抗日意志」が存在することから、日本が迅速かつ平和的な解決を求めることは「木によりて魚を求む」ようなものだと告白している。華北の敵後方の戦場においては、日本軍は、激しい治安戦を進めることを強いられた。その戦史は、「大量の国防資源を開発・取得して日本に送ったことは華北治安戦の成果と言える」としながら、「全面的に見れば、華北治安戦は予期した成果を上げることができず、作戦の目的も果たせなかった」としている。八路軍に対しては、見ることもできず、触ることもできず、「ただ月日を空費するだけで、両手を挙げて降参したいところだった」。1944年に至ると、日本軍は、「状況の進行から見て、中共が総反撃に打って出ることは間違いなく、戦略的に重要な地区を選んで、各地方でそれぞれ反撃を開始してくるだろう」と考えた。日本軍は占領区において、内部が空洞となった朽ち木のごとく、最終的な敗北を待たざるを得なくなった。
抗日戦争の過程における双方の態勢とその変化については、現在の日本の政界と学界で活躍する戦略論専門家で歴史学者の伊藤憲一が次のような独特な分析をしている。伊藤によれば、日本は意外なほど戦略家を欠いていた。それに比べると、毛沢東はハンニバルやアレクサンドロスのような古代の戦略家にも匹敵し、毛沢東の「持久戦論」は、「構想の偉大さと正確さ」において、諸葛亮の「隆中対」のような歴史的叡智を感じさせるものだと言うのである。伊藤はさらに、古典兵法の傑作である「孫子」の影響を指摘し、毛沢東の戦略を「孫毛兵法」と呼ぶ。日本の戦時の軍人と戦後の専門家の認識と分析は、深刻な実体験に根ざしたものである。これは、中国人民が抗日戦争において編み出した、反侵略と平和維持の戦略・戦術の独特な価値を一面から裏付けるものである。中華の各族の子どもたちは抗日戦争の血によって、民族自衛の剣を鍛え上げ、世界の軍事の宝となる輝かしい章を綴りだしたと言える。
我々は、中国人民が世界の反ファシズム戦争の序幕を率先して開き、極めて深刻な民族的犠牲をもって、同盟国の連合と共同作戦を促し、反ファシズム戦争の全世界的な勝利を勝ち取り、人類史上空前の戦災の歴史に終止符を打ったのだと自信を持って言うことができる。中国人民抗日戦争の勝利は、自らの世界的な大国としての地位を確立しただけでなく、国際連合の設立や戦後国際秩序の再建に大きな役割を発揮した。全中国の抗日戦争を担った軍民は、農業経済の貧弱な条件を克服し、工業化された軍国主義の強国に打ち勝つ戦略・戦術を編み出し、世界の軍事史に貴重な軍事的財産を加えた。中国人民抗日戦争の勝利は、中華民族が衰退から復興へと向かう重大な転換となり、アジアと世界との平和発展の新時代への歩みを力強く推し進めるものであった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月20日