抗戦時期、大軍を相手に徹底的に戦った「狼牙山五勇士」のエピソードを知らない中国人はいないだろう。29日に南京市地方誌弁公室を取材した際、研究員が日本から集めた日本軍の中国侵略史料「岡山歩兵第百十連隊史」において、「狼牙山、棋盤陀付近での戦闘」という記述が発見されたことが明らかになった。この記録と中国側史料を参照することで、壮士たちが殉死を遂げた戦闘の詳細が分かった。
1941年秋、日本軍は晋察冀地区の大規模掃討作戦を行っていた。日本軍資料に残される作戦計画名は「晋察冀地区粛正作戦」または「晋察冀地区粛清作戦」である。日本陸軍参謀本部が編纂した「昭和16年度(1941年)主要作戦梗概」によると、この作戦は同年に河北地区で行われた12の主要戦役の1つで、日本軍が投入した地上部隊は14支隊にのぼった。
南京市地方誌弁公室の研究員である胡卓然氏は取材に対し、研究と比較対照の結果、「岡山歩兵第百十連隊史」から「狼牙山、棋盤陀付近での戦闘」の記述を発見したという。日本側の記録には、日本軍歩兵110連隊第3大隊の大規模掃討作戦の詳細が記されている。戦闘は2回にわたって行われた。1回目は「易県于河付近での戦闘」で、2回目は「狼牙山、棋盤陀付近での戦闘」だった。日本側史料では「9月25日早朝、棋盤陀付近で八路軍を包囲し、攻撃し、殲滅した」とある。
日本側史料の戦闘開始の記述は「(八路軍)はチェコスロバキア製機関銃で我が軍を猛烈に射撃」となっている。中国側の資料には「狼牙山五勇士」の中で生還した葛振林氏と宋学義氏の回想記録がある。彼らが所属する六班では確かに機関銃隊がおり、火力によって日本軍を牽制し、引きつけた。当時の班長である馬宝玉が機関銃隊の撤退を選択したのは、当時の八路軍にとって貴重な武器を守るためだった。機関銃隊がうまく撤退した後、六班の5人の壮士は敵を引きつけるため、敢然と撤退とが逆の道を選び、断崖に向かった。