「孫の嫁が日本人でもいい?」
2016年12月13日午前9時58分。大学に勤める石川果林は教室で、日本語学科の学生の答案用紙の採点をしていた。答案が山積みになっている。それから2分後、耳に刺さる長いサイレンが始まった。
採点に没頭していた石川は最初びくっとして、次の瞬間、頭が真っ白になった。今日が国家追悼日だったことに今さら気付いたのである。
まず頭をよぎったのは子どもたちのことだった。静かな声で話し、カールの髪をそろえ、少し色白なこの女性は、3児の母親でもある。国家追悼日には例年、学校に事前に電話を入れ、子どもたちと家で過ごすようにしていた。
だがすぐに気を取り直した。「この何年も何も起きなかったのだから」と自分に言い聞かせた。60秒のサイレンが過ぎて、授業のチャイムがまた鳴った。
石川果林は南京で暮らして17年になる。子どもは三人。二人は中国籍。もう一人は「計画出産」の制限数を超えたため日本籍だ。
ここ数年、だんだん孤独になっていると感じる。石川のように中国人男性と結婚した日本人女性の知り合いもいたが、ある人は姑との関係で離婚し、別の人は子どもの教育のためと日本に帰った。まだ残っている親しい知り合いは2、3人しかいない。
「『南京人は日本人が嫌い』と多くの日本人が思っている。だから子どもや妻を連れて来る人は少ない。仕事なら上海や蘇州、無錫という人が圧倒的」。『中国青年報』の記者に石川は語る。
石川が南京に初めてやって来たのは2000年。3年で帰ろうと思っていた。
この年は、日本の「新しい歴史教科書をつくる会」が、日本の大量の戦争犯罪を隠蔽する2本の教科書案を文部省に提出した年である。また当時の国務院の朱鎔基総理もこの年、TBSのスタジオでテレビ出演し、日本の一般人と対話した。朱鎔基総理はその時、こう語っている。「どんな人も歴史を忘れてはならないでしょう。歴史を忘れることは裏切りです。歴史を直視しなければなりません。そして同時に未来にも目を向けなければなりません。歴史の教訓を汲み取り、間違いを重ねないようにしなければなりません」
だがその頃の石川果林には、中日関係にかまっている暇はなかった。南京大虐殺のことは小さい頃に習っていたが、教科書で一行、細かい文字で触れられているだけだった。
石川が当時考えていたのは、もっと現実的で差し迫ったことだ。外国人向けの日本語教師として、どの国に行って経験を積み、帰国して良い職に就くか、である。
日本で日本語を学ぶ中国人も少なくない。最初は瀋陽に行くつもりだった。だが行先の日本語学校が閉鎖してしまった。これには参った。荷造りはしたし、借りていた部屋も返した。ビザも取ってある。
そんな時にある人に「南京に来ないか」と誘われた。考える余裕もなく、その話に乗った。そしてこの選択が彼女のあらゆる計画をまったく違うものにした。
南京で教え始めた大学で、建築学科の南京人の男性教師と知り合い、付き合うようになったのである。帰国は延び延びになった。結局、日本の実家に、南京で結婚するので日本には帰らないと告げざるを得なくなった。
だが両親は厳しかった。「帰って来ないならお前という娘はいない」。向こうから電話をかけてくることもなくなったし、南京を訪れることも断られた。
男性側の家族も反対した。親戚があちこちからやって来て、男性の説得工作にかかった。「日本人は友達になるのはいいが、夫妻になるのはやめておけ」。
国をまたいだ恋人は、両方の家族を敵に回してしまった。
ある日、石川は夫の祖母に会いに行った。1937年の南京大虐殺を生き延びた南京人である。年を取って、耳があまり聞こえなくなり、腰掛けの上に丸くなっている。石川果林はその耳に顔を近付けて、「おばあちゃん、孫の嫁が日本人でもいい?」と尋ねた。
「もしおばあちゃんがいやなら、あきらめようと思っていた。日本人がしたことを見ていたのだし、中国人は家庭をとても大事にするから」と石川果林は当時の心境を語る。だが祖母は迷うこともなく、「いいんだよ、いいんだよ」と答えた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年2月3日