南京に暮らす日本人 それぞれの模索(五)歴史問題は「綿入りの風呂敷」

南京に暮らす日本人 それぞれの模索(五)歴史問題は「綿入りの風呂敷」。

タグ: 南京 日本人

発信時間: 2017-02-03 15:35:47 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

南京大虐殺遭難同胞記念館の事務棟の会議室に、平和の花「紫金草」の印象派風の絵がかかっている。

張建軍館長はこの絵を指差して、この絵から200メートルもない場所に、南京大虐殺の犠牲者が埋められた「万人坑」があるのだと語る。

「平和を求めるなら、過去を思わなければならない」と張館長は語る。

犠牲になった30万の同胞の霊の守護者たる役を負った張館長は、歴史問題は、中国と日本の人々が背負った「綿入りの風呂敷」のようなものだと語る。「この風呂敷はいつもはあまり重くはない。中に入っているのが綿だからだ。だが綿が水を含み始めると、風呂敷はどんどん重くなっていく」

張館長はある本に、空の封筒を挟んで保管している。封筒には署名もなく、中に手紙が入っているわけでもない。

退職した元教授の村岡崇光が記念館参観後、張館長に渡したものだ。中には、南京大学での村岡の講演の際の講演料が入っており、記念館に寄付したいと言われた。

村岡はその後、記念館に手紙を送ってこう話した。「私の同胞によって傷付けられた土地から講演料を取るわけにはいかない。一元でも受け取れない」

村岡にとっては2回目の記念館参観だった。参観者の人波が、当時の歴史の中へと分け入っていく。80歳近い村岡崇光は、自分と同じくらいの、また自分よりも年上らしい中国人の参観者を見ると、「面と向かい、目を合わせることができない」と感じた。

南京利済巷慰安所旧址陳列館の出口には、老いた被害者の像が立つ。目からは涙があふれている。「彼女の涙をぬぐってあげてください」との説明書きがある。村岡はこの像の前に黙って数分立ち、それからハンカチを取り出して、老女の像の頬を静かにぬぐった。

村岡は手紙にこう書いた。「私にとっても南京は特別な場所だ。亡くなった父の村岡良江は航空参謀陸軍中佐で、1938年前期に移転命令を受け、南京に駐在することになった」

自分の前の世代が犯した罪をつぐないたいとやって来る日本人は少なくない。記念館にかつていた日本人ボランティアも、父親のことがきっかけでやって来ていた。

彼女はいつも、解説員の事務所の隅に座り、机のランプの下で黙々と字を書いていた。分厚い手帳には、記念館の壁にかかった日本語訳の解説文がびっしりと書き込まれていた。

小柄で痩せ、アーチ型の眉で、そろえた短い髪の彼女は、まるで石膏の像のようだった。首にはいつも「国際ボランティア奉仕証」をかけ、手帳を入れたショルダーバッグを持っていた。

目のあまりよくない彼女は、展示パネルの解説文を読む時には、前かがみになって、パネルに顔を貼り付けるようにしなければならなかった。読むだけで2時間近くもかかる解説文を、彼女は一つ一つ書き写した。そして自分の言葉で、それをもう一度、読みやすい日本語に直した。日本語の解説文はたいてい中国人が翻訳したもので、彼女は、もっと日本語らしい言葉でそれぞれの話を説明したいと思っていた。

当時すでに60歳過ぎのこの女性は黒田薫と言い、大阪出身だった。記念館近くのホテルに小さな部屋を借り、いつもは記念館にいて、日本人参観者が来ると解説員を務めた。

休館になる月曜には、ジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会委員長)の故居や北極閣の犠牲同胞記念碑など、南京にある第2次大戦の跡地を訪ねて回っていた。中国語は話せなかったが、いつも道案内をしてくれる中国人に出会った。ある時には、胸につける花飾りを贈られて帰ってきたこともあった。

記念館を離れた後、彼女はこんな手紙を送って来た。「私のしたことでは全然足りない。それでも私は、わずかな力であっても、南京を愛し、日本で呼びかけを続け、歴史を伝えていきたい」

彼女の父親も、中国を侵略した旧日本軍の一員だった。

ここ数年、記念館を参観する日本人の数の統計は難しくなっている。彼らはひっそりと姿を現し、誰にも声をかけず、話をしようともしない。「絶対に日本語を話してはいけない」という了解が彼らの間でできているようである。

黙って見学し、黙って去って行く記念館の日本人参観者。

日本で長年生活したことのある職員だけが、髪型や服装から彼らを見分け、そっと視線を交わすこともある。

記念館の職員にとっては、参観にやって来た日本人を案内するのは、簡単な仕事ではない。周囲の状況に常に注意しなければならなくなるからだ。難しいのは言葉ではなく、周囲の参観者の視線だ。

周囲の中国人が長い間立ち止まり、眺めているのを見つけたら、職員が近付いて声をかけ、参観中の日本人は「歴史を直視している」のだと説明する。

感情を抑えられず「日本人ならちゃんと見ていけ」と言い残して去った人もいた。だがそれを除けば、トラブルになるようなことはほとんどなかった。

張館長がいつも考えていることがある。我々は今日、どのような方式でこの時期の歴史を銘記するべきなのだろうか。「1937年の南京大虐殺から80年が経った。3つの世代が交替した。もう一度考え直す時期に来ている」

張館長はほとんど毎日、記念館を一回りしている。それでも今でも時に、心が揺さぶられる思いに見舞われることがある。

「現在の大虐殺記念館の主要部分は2007年に建てられた。当時は、人類の『浩劫』(災禍)というテーマが強調された。10年が過ぎ、記念館のテーマも『浩劫』から『記憶』へと向かうべきなのかもしれない。『浩劫』には情緒が伴う。犯罪そのものが一種の情緒を引き起こすのは当然だ。だが『記憶』とは、冷静な回顧と反省だ。愛国を語るにあたって、頭のほてったような方式はもはや用いるべきではないだろう。いかに団結し、自らを鍛えるかを考えるべきだ」

張館長は、慰安婦のような戦争の被害者が生まれたのは、国が貧しく弱かったためであり、被害者は国のために難を受けたのだと語る。「国が弱いために苦労し、難を受け、命を失った人々を尊重し、支援し、補償することも、歴史の銘記の一つだ」

張館長の目には、日本車の破壊や日本製品のボイコット、ネットでの日本人罵倒などはどれも、歴史を銘記する方式ではないと映る。「本当の銘記とは、他国よりもよい暮らしを求め、他国よりも高い素養を備え、各自の分野で他国よりもすぐれた業績を上げることだ」。

張館長は、重たくゆっくりとした口調でそう語った。

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年2月3日

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