慰安婦生存者が32人から22人、11人に 日本政府の謝罪のタイムリミット迫る

慰安婦生存者が32人から22人、11人に 日本政府の謝罪のタイムリミット迫る。

タグ: 慰安婦 現象 日本軍 謝罪 

発信時間: 2017-07-19 10:14:48 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

2012年12月、80年代生まれの郭柯監督は慰安婦をテーマに、ドキュメンタリーを撮影した。全国の生存中の元慰安婦は当時32人しか残されていなかったため、同作品は『三十二』と名づけられた。郭監督は2014年に新作ドキュメンタリーの撮影準備に入ったが、作品名の数字は『三十二』から『二十二』に変わった。2017年1月時点で、元慰安婦の生存者は残すところ11人のみとなった。

韋紹蘭さん(97)は、その32人の一人であり、11人の一人でもある。彼女は1944年に日本軍に連れ去られ、馬嶺慰安所に送られた。悪夢はそれから始まった。3カ月後のある日、彼女は見張りの日本兵が居眠りをしている間に慰安所を脱走したが、悪夢はそれで終わらなかった。

彼女は日本人の子供を身ごもったことに気づいた。自殺しようとし農薬を飲んだが、隣人に救助された。姑からはその後「死んでどうする、生き延びろ」と説得された。生まれた息子には羅善学と名をつけた。70代になろうとする羅さんはまだ結婚しておらず、「幼い頃からおかしな目で見られた」と話す。

韋さんは、自分より苦しんだ人はいないという。将来どうすると聞かれると、息子の羅さんは、年老いて見る人がいなくなれば、農薬を飲んで自殺すると話した。しかし韋さんは「私はまだ十分に生きていない。この賑やかな世界を見るため生き延びなければならない」と語った。

林愛蘭さんは、当時のアジア全体で唯一慰安婦になることを強要された、抗日女性戦士生存者だ。林さんは14歳の年に共産党が率いる瓊崖縦隊に参加し、紅色娘子軍の一員になった。彼女は弾薬を盗むため日本の部隊に潜入し、政府から2つの記念章を授与された。彼女はこれを、命よりも重視している。

1941年、日本軍に捕まった林さんは拠点に連行された。彼女はそこで子供を作る能力を失い、足も折られた。彼女はその後歩けなくなり、毎日椅子に座り、両手で椅子を押さえながらゆっくり動くしかなくなった。

林さんは結婚したことがない。70歳になろうとするころ、女の子を養子にもらった。彼女はたくましい性格をしており、視線も鋭い。部屋に最も多く置かれているのは、刃物だ。包丁、果物ナイフ、それから鎌。鎌を使ってどうするのかと聞かれると、林さんは夜に泥棒が入ったらこれで斬りつけるのだと話した。

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