≪演じる意味≫
現在は中国広東省・上川島で映画の撮影中だ。今回は現代もの。。(笑)それも今回は中国人役である。ほどよく人間味のある悪役。しかし、もう自分の心の中に善悪の境界線はない。今まで数多くの悪役を演じてきたが、悪役だから悪役の定義にはめ込むようなものにはしたくない。それが日本人役であれ、中国人役であれ同じ。物語の位置としてそういうポジションであっても、演じる役は何かくせのあるものを作っていきたいという願望が強くなっている。演技において、すんなりと片付けたくないという願望だ。先日、あるスタッフとの会話中に、「浩二のここ最近の作品には進歩が感じられる。さすがに数多く出演してるものだ」と言われた。実に喜ばしいお言葉だ。どの世界でも同じかもしれない。場数を多く踏んでいけばいくほど、技術が磨かれていく。昔は直球ストレートでしか勝負できなかったのが、経験を積めば緩急のある投球で切りぬけていける。でも、慣れ親しんだテクニシャンにはなりたくないという複雑な思いもある。常に青い部分を演技の節々に残していきたい。“青い”というのは“未熟”ではなく“意外性”という意味。意外性のある演技をしていくということ。観衆にほのかなサプライズを感じさせる演技をし続けたい。それが自分の理想だ。無難に緩急をつけた投球で切り抜けるだけじゃなく、たまには思いがけないストレートをど真ん中に投げたり、大暴投を投げてみたりなどの意外性。それを極めていければと思う。だから慣れ親しんだ軍人役でも決してハードルが低いとは思っていない。逆に「どういうふうに形作っていこうか」という部分で頭をひねっている。作品の中で、その役は末路があって哀れなキャラクターであるが、撮影現場の中では「そう簡単には処理せん!」という思いだ。どこまで食い付くかがキーポイント。でないと役が生きない。生きるものを作る為にギリギリのギリギリまで模索して現場に入っていきたい。僕ら日本人の俳優がこっちで活動していく意味というのはこういうところにある。日本人を演じるなら生身の日本人を見せていく。ステレオタイプ的なそういうものが例え監督からの要求でも、中国の観衆には二度と見せたくない。その思いは僕には強い。これを続けていけばいつか何かが変わっていく。。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年6月3日