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改革・開放30年で最も影響力のあった30の重要な出来事 |
発信時間: 2008-03-03 | チャイナネット |
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1978年に始まった改革・開放政策は、現代中国の運命を決定する重要な政策になった。この30年、中国には天地を覆したような変化が起こり、内外のマスコミの注目を浴びてきた。 改革・開放政策の実施から30年を迎える今年、この30年の回顧や総括する報道が盛んになり、改革・開放政策が中国にもたらした巨大な変化や、世界に与えた大きな影響が認められている。そしてメディアの注目は、中国の経済発展や社会の変化、政治体制改革、中国の国際的な影響力、外交政策の方向、調和のとれた社会、科学発展の理念にも及び、中国の改革開放の成功が、世界経済の成長を促進することを期待している。
1、1978年 中国共産党第11期第3回中央全体会議の開催 中国共産党第11期第3回中央全体会議が、1978年12月18日から22日にかけて北京で開催された。会議では作業の重点移転の方策が決められ、鄧小平をはじめとする中央指導グループが結成されて、民主を制度化し法律化する重要課題が打ち出された。また会議では、改革・開放という新たな方策を決定した。これによって中国の政治方針は、「階級闘争を要とする」から、経済建設を中心に、対外開放するという歴史的な転換を向かえる。
2、1979年 経済特別区の設立 中国共産党中央と国務院は1979年7月15日、深セン、珠海、汕頭(スワトウ)、廈門(アモイ)を特別区とするテスト運営を決定した。国務院は8月13日、『対外貿易の発展と外貨収入の増加に関する若干規定』を公布した。その主な内容は、地方と企業の国際貿易権を拡大し、輸出貿易の増加を奨励して、輸出型特別区を設立することである。 中国共産党中央と国務院は1980年5月、特別区を正式に経済特別区と名づけた。改革・開放当初、対外経済交流の経験が少なく、国内でも法体系が不完全な状況の下での経済特別区設立は、国内のより一層の改革・開放や、対外経済交流の拡大に極めて重要な役割を果たした。
3、1982年 世帯生産量連動請負制の確立 中国共産党中央は1982年1月1日、『全国農村業務会議紀要』を認可し、現在、農村で実施している各責任制は、いずれも社会主義集団経済の生産責任制であると示した。 中央は1983年に文章を公布し、生産量連動請負制は共産党の指導下での農民の偉大な創造であり、マルクス主義農業協同化理論の中国における新たな発展であると評した。生産量連動請負制の普及につれて、個人の支払いと収入が結びつくようになり、農民の生産意欲が大いに呼び起こされ、農村生産力が解放された。
4、1984年 計画性ある商品経済の提出 中国共産党第12期第3回中央全体会議が1984年10月20日、北京で開かれ、『中国共産党中央の経済体制改革に関する決定』が採択された。改革の基本課題は、中国の特色ある生気と活力に満ちた社会主義経済体制を確立し、社会生産力の発展を促すことである。そして、改革の基本目標と各要求が明確になり、計画経済体制を打ち破る条件を作り出した。
5、1986年 国有企業改革が開始 国務院は1986年12月5日、『企業改革の深化と企業活力の強化に関する若干規定』を公布した。この規定では、全国民所有制(国有)小企業の貸し出しや、請負経営のテスト試行、国有大中企業の様々な形式の経営責任制の実施が提出された。これによって各地は、条件が整った数の国有大中企業を選び、株式制のテスト実施が可能になった。 同規定の公布は、都市部経済体制の改革を促す重要なステップになり、行政の簡素化、企業の外部条件の改善、経営自主権の拡大、内部メカニズム改革の促進にとって重要な意義を持っている。
6、1987年 「一つの中心、二つの基本点」という基本方針の誕生 中国共産党第13回全国代表大会が1987年10月25日から11月1日にかけて開催され、当時の総書記趙紫陽氏は「中国の特色ある社会主義の道に従って前進する」という報告を行った。この報告では、社会主義初級段階の理論が説明され、党の社会主義初級段階における「一つの中心、二つの基本点」という基本方針が打ち出された。そして3段階に分けて実現する次世紀の現代化戦略を制定し、政治体制改革の任務を提出した。 第13回党大会は、第11期第3回中央全体会議が制定した方針を継続し、それを豊かにさせて発展させ、マルクス主義の中国化という飛躍を実現して、中国の特色ある社会主義建設の道を切開いた。
7、1988年 「科学技術は第一の生産力だ」の提出 鄧小平氏は1988年9月5日、外国の訪中者と会見した際、「科学技術は第一の生産力だ」という有名な論断を提出した。1985年3月13日、中国共産党中央は、『科学技術体制改革に関する決定』を発表し、現代の科学技術は新しい社会生産力における最も活発で、最も決定性を有する要素であると指し示し、当面の科学技術体制改革の主要任務を規定した。 この決定は、経済振興のために科学技術が奉仕し、科学技術の成果による商品化の促進、技術市場などの開拓の方針や政策をマクロ的な見方から制定した。そして科学技術成果の現実生産力への転化や、ハイテク産業化の発展を促進し、文化大革命(1966~1976年)後の科学技術体制の全面的改革の序幕が開いた。
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