「言葉が話せる家畜」から土地をもつ自由な人間に

japanese.china.org.cn  |  2009-03-23

「言葉が話せる家畜」から土地をもつ自由な人間に。50数年前、貴族の家の炊事場から客間に通じる廊下で震えていたまだ幼いゲレェさんは、母親とともにここで一生働かなければならないのだと思い、その後、新中国で最初のチベット族の博士になるとは思ってもいらなかった。というのは、幼い頃から、良い生活をする願いは「来世のことよ」と教えられてきたからだ…

タグ:新中国最初のチベット族の博士のゲレェ,農奴,民主改革

発信時間:2009-03-23 10:55:07 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

新中国最初のチベット族の博士のゲレェさんを訪ねて

50数年前、貴族の家の炊事場から客間に通じる廊下で震えていたまだ幼いゲレェさんは、母親とともにここで一生働かなければならないのだと思い、その後、新中国で最初のチベット族の博士になるとは思ってもいらなかった。というのは、幼い頃から、良い生活をする願いは「来世のことよ」と教えられてきたからだ。

現在、中国チベット学研究センターで、副総幹事をつとめているゲレェさんは、かつて三回もダライラマの個人代表と座談したことがある。また、数多くの都市で博士課程の学生たちを指導し、何回も外国へ学術交流に赴ったことがある。

ゲレェさんの家は四川省ガンズェ(甘孜)チベット族自治州にあり、1956年に民主改革が行われていた。「民主改革がなければ、わたしはいまだに農奴のままであっただろう」と彼は言う。

 

「言葉が話せる家畜」から土地をもつ自由な人間に

ゲレェさんは1950年に四川省ガンズェ・チベット族自治州ガンズェ県のある村に生まれ、今でも自分の誕生日はいつなのか分からない。母と姉は領主の財産としてもう一人の領主に贈り、ゲレェさんは生まれたときから父親と一度も会ったことがなかった。

「わたしたちは農奴の中では最低の層に属し、身につけている服のほか何もない。一家は貴族の炊事場と客間の間の廊下に寝泊まりし、昼間に着ているチベット族の服を夜は布団としていた。代々貴族のために働き、『言葉が話せる家畜』と見なされていた」と言うゲレェさん。

幼いころのゲレェさんの意識には、この世には鬼神や寺院、農奴の働きがあるほか何もないと思っていた。「生まれてからそのように仕つけられたので、幸せな生活を来世のことと考えるしかできなかった」と彼は語る。

1956年、地元の農奴たちは初めて自分の土地と家を持つようになった。チベットの伝統的な社会ではこれらのものはもっとも大切な財産であった。土地がなければ財産がないのと同じことで、発言権もなく、社会的地位もないこととなった。

「長年チベットの農奴であった人たちは初めて自分の土地をもつようになり、当時の農奴たちはまだズボンもなく、衣服がボロボロであったにもかかわらず、みんなは欣喜雀躍して心の底から喜んでいた」とゲレェさんは語る。

ゲレェさん一家が分配された家屋は地元のある中等貴族の家から没収したもので、そこに寝泊まりした最初の夜、一家はみんな一睡できなかった。「内装を一新したばかりの新しい部屋は、窓ガラスもちゃんとついていて、明かりをつけると自分の姿がガラスに映るので、とても珍しく、不思議であった。ある倉庫にはまだバターのミルクの残りカスが少し残っていたので、みんなそれをつまんで食べた。それまでこんなに美味しい物を食べたことがなかったのだ」とゲレェさんは語る。

30のチベット文字の字母から40万字の博士論文へ

ダライラマの兄との論争


30のチベット文字の字母から40万字の博士論文へ

ゲレェさんは、自分の社会的地位を変えるにはラマになるしかないと以前は思っていた。母親のたっての願いで、5歳のゲレェさんは領主の読経堂で大鼓を打ち鳴らし祈祷することを許された。そこで彼は経典を読むラマたちについて仏教の経典を勉強することができた。「わたしの勉強は一家の働きを代価として取り換えたものなのだ」と言うゲレェさん。

「紙と筆もなく、壁に穴を開け、光が穴から射してくると勉強が始まる。ラマたちについて読経するだけで、意味は分からないままであったが、読み間違ったら殴られるのだった」と。こうして半年後にゲレェ君はチベット文字の30の字母を覚えた。

1956年、政府は地元で小学校を開設し、ゲレェ君はやっと学校でチベット語と漢語を勉強することができるようになった。「それ以後人類とは何か、地球とは何かを知り、また天安門を知ることになった」というゲレェさん。

ゲレェさんは、小学校から学費を払ったことがなく、国が食費を支給してくれたばかりか、衣服さえ与えてくれ、中学校に入ると、三年間連続で一等奨学金を獲得していた、と言う。

1964年、中学校を卒業したゲレェさんは成都にある西南民族大学の中等専門クラスに入学した。四年後、「チベット語翻訳専攻」のクラスを卒業し、故郷のガンズェチベット族自治州に戻って仕事をすることになった。1978年に中国社会科学院の民族研究所に入所し、少数民族、特にチベット族の社会と歴史を研究することになった。

1986年にゲレェさんは博士論文を書き上げ、しかも中山大学の人類学学部での答弁がスムーズに認められ、新中国で養成した最初の人類学博士となり、そして最初のチベット族出身の博士となった。彼は北京で中国初のチベット学研究センター設立の企画と建設の作業に参加した。


ダライラマの兄との論争

1988年から89年までに、ゲレェさんは前後として、アメリカのインディアナ大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校に客員教授として招かれた。その間、彼はダライラマの兄、アメリカのある大学で教授となっていたジンメイトゥプテン・ノオブ氏と出会い、激しい論争をした。

「ダライラマの兄は、チベット族と漢族は水と火のような関係にあり相入りないのだと言ったのに対して、わたしは、悪人と善人は民族で分けるのではなく、どの民族にも善人もいれば悪人もいる。一つの民族がすべて悪人、一つの民族がすべて善人だというのはなぜか、と言い返した。彼は返す言葉がなかった」とゲレェさんは語る。

「民主改革以前、わが家の人々は農奴で、ダライの兄は生き仏だった。農奴のすることは働き、物を運び、種をまき、取り入れをすることのみで、ほかのことをするのは絶対に許されなかった。しかし、今ではわたしは中華人民共和国の学者として、学術交流活動のために、アメリカのアカデミー院に招かれる身分である」

「民主改革がなければ、ダライの兄と対等の資格で論争することはどうしてもできなかっただろう。わたしは大きな自信と誇りを持っている」とゲレェさんは言う。

現在、ゲレェさんは毎年チベット族の地域へ調査や研究に赴いている。「どのように『持続可能な発展』という理論をチベットに生かし、チベットの文化と環境を損なわないという前提条件の下で経済を発展させ、すばらしい現代化のチベットを建設するかは、研究に値する課題だと思う」と彼は語った。

2008年7月にゲレェさんは学者としてダライの個人代表と座談し、彼らに建設中の中国で最初の国家クラスのチベット族文化博物館について紹介した。この博物館は北京にあり、やがて竣工するが、2000点以上の珍しい文物がみんなの前に展示されることになっている。博物館の展示テーマは「チベット――あこがれの地」である。

「チャイナネット」2009年3月23日

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