清の順治14年(西暦1657年)に順治皇帝が人を派遣して5世ダライラマを見舞った際に手渡した詔書。
清の雍正元年(1723年)に雍正皇帝が6世ダライラマを報奨した際の詔書。
中国国家档案(歴史公文書)局は4月24日にチベットと関連のある歴史公文書10件を公表した。これについて、楊冬権国家档案局長は25日に新華社記者のインタビューに応じ、次のように語った。
これらの歴史公文書と史実はすべて、数百年来、チベットの歴代のダライラマはいずれも中央政府の認定、冊封を経たものであり、しかも中央政府の認定、冊封を経てはじめて政治と法律の地位を持つことを十分に示している。
「ダライラマ」という称号は明の万暦の頃(1573-1620)から使い始めたものである。万暦6年(1578年)、チベット仏教ゲルク派(一般に黄教といわれている)首領のソナンギャムツォは布教の際にモンゴルのトゥメット部族首領のアルタン・ハンと青海湖のほとりで会った。アルタン・ハンはソナンギャムツォを「何でも知っている聖人のワチルダライラマ」と尊称した。「ダライ」は「ギャムツォ」という姓名の対訳であり、モンゴル語では「大海」という意味もある。「ラマ」はチベット語で「大師」という意味である。したがって、ダライラマは「ギャムツォ大師」という意味もあれば、また大海のように広い学問を身につけた大法師という意味もある。
「ところが、その時、この称号はまだ個人の間で使われる尊称に過ぎず、政治と法律の意義を持っていなかった。」
『明実録』の記載によると、明の万暦15年(1587年)10月丁卯日、「番僧のダライ」が『ドルチチャン』という称号に昇格することが認められ、やはり勅命と信任状を授与された。」
「これを見ても分かるように、明王朝は歴史上初めてのダライラマに対し正式に冊封を行った。」
ソナンギャムツォがこの称号を授与された後、ゲルク派上層の高僧たちは彼を第三世ダライラマと決め、ゲルク派創始者ゾンカバの大弟子であるゲドゥンドゥバを第1世ダライラマと追認し、ゲドゥンドゥバの継承者のゲドゥンギャムツォを第2世ダライラマと追認した。明の万暦20年(1592年)、明王朝はまた詔書を下し、第3世ダライラマに授けた称号をユンテンギャムツォに継承させ、彼はとりもなおさず第4世ダライラマである。
「歴史的原因のため、明の朝廷が第3、4世ダライラマを冊封するオリジナルの公文書は保存されてこなかった。5世ダライラマから、朝廷の詔書、ダライラマを認定、冊封する公文書は今でも保存されている。」「現在私達が選び出したいくつかの歴史公文書は、歴代のダライラマがすべて中央政府の冊封、認定を経たものであることを端的に示すものである。」