党の学校で勉強していた頃から、江青と毛沢東はよく逢っていた。江青はわからない問題を教えてもらうことを口実にしては、足しげく毛沢東の家に通っていた。そして、彼らが付き合っていると言う噂は知らず知らずのうちに延安中に広まった。
江青の身辺調査を行なっていた党の組織は、この頃、徐明清の元を訪れ、江青の上海での生活ぶりを尋ねていた。徐明清は当時の噂を知っていたので、江青と毛沢東の結婚のための調査なのだろうと思ったと言う。
共産党幹部の徐明清が組織に出した報告と、彼女が江青のために行なった証言には大きな違いがある。それでも、彼女は自分が見聞きしてきた江青の上海での生活と数々のロマンスを忠実に語っていた。
1938年4月、延安魯迅芸術学院が設立され、江青は党の学校から劇を指導する先生として魯迅芸術学校に赴任する事となった。1938年8月、今度は人生を変えるような転職命令が下った。彼女は中央軍事委員事務局の秘書となり、毛沢東の元で仕事をする事となったのだ。これは江青にとっては人生の一大ターンニングポイントであった。これをきっかけに江青と毛沢東は一緒に暮らすことになったのである。
中国共産党の最高責任者である毛沢東が、上海の元映画女優の江青と結婚することに対し、共産党内の高官たちの間には様々な意見が入り乱れていた。聞くところによると、中央政治局の会議で二人の結婚は認められたものの、江青に対してはある程度の制限が設けられた。例えば、彼女は毛沢東の身辺の世話や健康管理だけに尽くし、政治に一切の干渉と党内で要職に付くことを許されなかった。また戦時中だったため、二人の結婚式は質素なものだった。