数年前から春節が来るたびに取り上げられる話題がある。年越しの文化が薄れているということである。その原因は二つある。
一つは、ライフスタイルの突然の変化。数千年にわたる変化の少ない生活の中で形成された謹厳な年越し文化が緩み、すぐに新たな年越し文化の体系をつくり上げるのは難しいため、文化が薄れるのは必然のことである。
もう一つは、年越し文化に対する無知。伝統的な習わしを時代遅れのものと見なし、あってもなくてもよいものと考え、花火を上げたり爆竹を鳴らしたり、先祖を祭るということを自ら進んで放棄し、その代わりにレジャーを提唱したり、春節を西洋のカーニバルに変えようとする人さえいる。民俗の祭日を失えば、自ずとありふれたものに変わってしまう。とくに一部の民俗は、人々の記憶の奥底に埋められ、いったん捨ててしまえば補填することができない。このように自ら進んで自分の文化を瓦解させることがもっとも致命的なのである。10年以上前に読んだ文章には、春節は将来、変化に富んだ多元的な祭日のひとつになり、しかもそれはもう主役級の祭日ではなくなるだろうと予言されていた。
しかしこのとき、「春運」が形成された。5つ星ホテルやダンスホール、バー、ゴルフ場には春節はいらないが、人々の心の中には依然として「年越しコンプレックス」が棲みついており、春節のたびに必ず花を開く。家に帰って年を越し、身内が集まり、新しい服を着て、平安と幸福を祈り、心から郷土の根に接吻をする。
当時は「春節」の人の波の中にある文化的心理や文化的需要を見ていなかったため、社会転換の時期にどのようにして伝統を守ればいいのか、伝統的な習わしが緩んだときはどうすればいいのか考えつかなかったが、今ははっきりした。年越し文化は人々の心の中では決して薄れてはおらず、伝統的な様式や形態が薄れただけであることが。
この点から見れば、中央テレビ局の「春晩」(大晦日に放送される番組)は中国のテレビ人たちの年越し文化に対する偉大な貢献であるといえよう。「春晩」がなければ、花火や爆竹を禁じられている都市は非常に寂しい大晦日となり、単なる週末のようになってしまうだろう。