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中日両国の歴史観:その相違と解決への道
発信時間: 2008-11-07 | チャイナネット

:その疑問は実際は次のような問題と関連するものだ。つまり、異なる地域、異なる民族、異なる国家の人民は、歴史に対する見方が一致するか否か、ということだ。これに関連しては様々な見方があり、例えばスターリンは「民族紛争の問題は、極論すれば階級闘争の問題だ」と述べている。このため侵略戦争を起こすのは統治者で、人民はいずれも被害者だとする、こうした見方である。こうした観点には合理的な面もあるが、実際の状況が完全にそのとおりだというわけではない。実際、異なる地域、異なる民族、異なる国家の人民の歴史に対する見方には一致する点もあり、一致しない点も数多くある。またこうした不一致はちょうど異なる地域や民族、国家の歴史や現実の環境、及びそれにより決定される利益や多くの他の面での違いにより形成されるものだ。

 

そのため、多くの問題におけるイラン人民と米国人民の見方が一致しないのと同様、中国人民と日本人民も多くの問題において見方が一致しないのだ。こうした意味から見ると、この問題と前述の問題とは実は同じ問題なのだ。

 

:なぜそうなるのか。根本的に言うなら、人民の利益は一致するものではないのか。日本軍国主義が侵略戦争を起こし、結果はどうであったにしろ、苦しみ被害を受けたのはいずれも人民だったのではないか。

 

:この問題はおそらく、少なくとも2つのレベルから解釈しなければならないだろう。

 

第1に、唯物史観が明らかにしたように、全ての社会で統治的地位を占める主導思想はいずれも統治者の思想で、古今東西同じである。実際、現代の歴史研究は既に次のようなことを証明する史料を十分に備えている。ナチスドイツや日本軍国主義などが起こした侵略戦争で、ドイツや日本の人民はいずれもただ受動的に受け入れたのではなく、大きな程度で積極的に参与したのだと。実際、第2次世界大戦の終了前には、少数の知識人やエリートを除いて、全体的な情況を見れば、ドイツ人民や日本人民は自国の統治者が始め、起こした侵略戦争に対する認識や深刻な反省はなく、反抗や抵抗などはさらになかった。その原因を突き詰めると、ドイツ人民にしろ日本人民にしろ、いずれも統治者の思想を受け入れなければならず、また実際にも確かに受け入れさせられてきたからだ。中国も同様だ。例えば「文化大革命」は、今日の我々から見ると非常に荒唐無稽、ひいては不可思議にさえ見える。最高位の発動者の初志がどのようなものだったにしろ、今日から見れば正真正銘の「文化破壊」のどたばた劇、猿芝居、悲劇に過ぎず、国家と民族に極めて悲惨な結果をもたらした巨大な災難でしかない。しかし当時は、この荒唐無稽で不可思議な悲劇に逆に、全人民が狂ったように投入し積極的に参加したのだ。

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