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改革途上国の中日 |
発信時間: 2008-11-11 | チャイナネット |
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馮 冷戦終結後すぐにではなく、徐々に不安定になってきましたね。 加藤 1991年以降は、「南巡講話」を皮切りに、中国の「改革・開放」路線も本格化していき、その一方で、中日両国は共通の脅威であるソ連を失い、新たな共通の戦略基盤を模索していく時代にシフトしていきました。 馮 冷戦終結後、中日だけではなく、日米同盟も敵を失ったはずですが、日米同盟はかえって強化されましたね。その背景の一つに中国の台頭があったと思います。日本の一部の政治勢力はソ連の代わりに中国を仮想敵国にしました。米国も、中国は怖い存在だというシグナルを出している。日本にとっての脅威は、中国以外に朝鮮民主主義人民共和国もありますが、国家のスケールとして小さすぎます。日米同盟にとって、冷戦期のソ連に匹敵する脅威は中国しかありません。同盟というのは、敵がいるからこそ、生命力を持つのです。敵がいなくなれば、同盟の生命力も自然になくなります。 馮昭奎さん ODAが「改革・開放」をサポート 加藤 中国の「改革・開放」と中日関係とはどういう関係にあるのでしょうか。 馮 まずは『中日平和友好条約』の締結ですね。両国の平和共存時代のスタートを意味します。お互いに「覇権を追求しない」と誓い、と同時に第三国の覇権にも反対するというコンセンサスを得ました。「第三国の覇権」というのは当時のソ連に対するものです。当時、中国はソ連の脅威に直面していました。とくに1969年の「珍宝島(ダマンスキー島)事件」前後、中ソ関係は極度に緊張していました。 その後の中国の「改革・開放」は主に「西側」を対象とするものでした。これによって「開放の窓」が180度転換しました。東から西へ、つまりソ連・東ヨーロッパから欧米・日本にシフトしたのです。「改革・開放」のプロセスでさまざまな国家と交流をしていきましたが、その中でも日本の貢献がもっとも大きかったと考えます。 |
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