「漢方」伝播
現在、日本で一般的に言われる「中医」は、長らく「漢方」と呼ばれてきた。漢方薬というように、今でもその言い方は残っているし、中医=漢方と理解されている傾向が非常に強い。
しかし、本家中国では「中医学」と漢方がまったく同一というわけではない。日本には中医と同じスタンスに立つ漢方医もいるが、中国の専門家が聞いたら、驚くような日本独特の漢方が存在するのも事実である。ここではその理由を追ってみたいと思う。
日本に中国の伝統医学が伝えられたのは6世紀半ばで、知聡という中国人が針治療の方法を持ち込んだのが最初といわれている。当時の中国は晋の時代にあたり、その後、遣隋使や遣唐使によって医書や漢方薬が伝えられ、平安時代には中国の伝統医学はすっかり日本に根付いていったのである。
ちなみに、伝わった当時の「晋方」や「唐方」ではなく、「漢方」と呼ぶのは、当の中国でもそれらの時代以前にすでに成立していた医学だからである。中医学の原典ともいえる『黄帝内経』や最初の薬学書『神農本草経』は漢の時代にはすでに編纂されていた書物である。
日本独自の漢方の成立
飛鳥時代から奈良時代に伝えられた漢方は、平安、鎌倉時代を経て安土桃山時代までは、師である中国の後を追うように発達してきた。しかし、日本人の漢方医が増えるにつれて、彼ら自身による医書が出されるようになり、その中には基礎理論よりも臨床を重視したハウツー本も含まれるようになった。
安土桃山時代にはそうした安直なハウツー本が流行し、伝統哲学に基づいた漢方の基礎理論があまり顧みられなくなってしまったのである。この状態に拍車をかけるように、江戸時代になると、鎖国政策のために中国からの情報が途絶え、漢方は日本独自の道を歩むことになったのである。
情報が途絶えても、それまでの蓄積が十分ならばよかったが、日本にきちんと伝えられていた中医学の古典は『傷寒論』と『金匱要略』の二種類だけで、しかもそれらは限定された部分的理論を紹介するものでしかなかった。江戸時代以降の日本の漢方は、その二種類の理論をベースに発展せざるをえなかったわけである。