彼らは中国へ行き、そして今の職に就いた。食べていくためにはこの教師という仕事を続けるしかない。だが、彼らの嫌う中国には、一般の中国人までもが含まれていることがある。
勿論、日本人全体においても本物の親中派は多くない。「知中派」と言った方がいいだろうか。一世代前の日本人が好んだ、或いは熱中したのが中国の古代文化だった。彼らは、中国の古典を直接読め、漢詩を書く。私の周りにも、時々漢詩唱和会まで行う日本の中国語教師達がいる。
それに比べ、若い世代の漢文レベルはというと、たった2000字程度の漢字である。しかも彼らが学んだ字は中国の簡体漢字で、繁体字とは結びつかず、古典漢詩書籍等読めるはずもない。だが、中国の実情に関しては、彼らの先生より多くのことを、身をもって知っている。ここにはもちろん中国社会の暗い一面も含まれている。これらの現実を、彼らの価値観でもって判断すれば、「嫌悪」感が生じるのも無理はない。
日本人の「嫌中」を究明する際、よく言われるのが「中華思想」である。この言葉は主に秦、漢時代以降、中国が自らを世界の中心としたことや、中国人がよく強烈な自己主張を行うことを指している。
「それは、アメリカも同じじゃないか。日本人はなぜ「嫌米」にならないのか。」と私は反発する。それに対し、「アメリカは距離的に遠いからだ。嫌悪感は近ければ近いほど強くなるものだ……」と答える者がいる。ならばこれは、日本の「中国脅威論」に対する心理的コンプレックスではないのか。
日本人は普段、自身の感情を上手く表現できず、心に溜めこんでいる。しかし、溜めきれなくなった時、激しく爆発する。二年前の「毒入りギョーザ」事件こそ、まさに中国に対する長年の恨みが爆発したものだった。日本のメディアは一夜にして嫌中旋風を巻き起こし、NHKまでもが普段の公平さを失い、毎日の主要ニュースのヘッドラインは全て「毒入りギョーザ事件」という状態が1ヶ月も続いた。私の授業でもギョーザの話題になると、学生達に「毒入りギョーザ」の作り方を教えなければならなくなってしまった(勿論冗談だが)。