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唐招提寺の全景 |
平城宮跡に復元された大極殿 |
医や食も伝えた鑑真
遣唐使は中国から文物や制度を持ち帰ったばかりではない。当時、仏教が盛んだった唐から中国の高僧を日本に招いた。『東征伝絵巻』には、753年10月、揚州の延光寺で、高僧の鑑真が遣唐大使の藤原清河ら一行に会見する模様が描かれている。
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| 鑑真和上坐像(唐招提寺提供)日本最古の肖像彫刻。 |
これより前の743年に鑑真は、日本の留学僧の栄叡、普照から「戒」と「律」を日本へ伝えるよう懇請された。5回にわたり渡日を失敗して盲目になった鑑真は、753年、ついに日本に上陸した。翌年、平城京へ到着した鑑真は聖武上皇以下の朝野の歓待を受けた。
この年4月、鑑真は東大寺の西に戒壇院を築き、上皇、天皇、皇后から僧尼まで400人に菩薩戒を授けた。これは日本の登壇授戒の始まりである。759年に鑑真により創建された唐招提寺は、律宗の総本山になった。鑑真はいまも日本の律宗の開祖として尊敬されている。
鑑真は日本の医学の発展や庶民の生活改善にも貢献した。
昔の日本人は、ケガをしたら薬草を塗るくらいで、あとは神様にお願いするしか方法がなかった。鑑真は外科手術を日本に伝え、さまざまな漢方薬も持ち込んだ。当時の日本人にとって、漢方薬は不老長寿の薬であった。1940年代まで、薬屋の封筒に鑑真の顔が印刷されていたが、これも鑑真が日本の医学の先駆者だったことを示している。
また、味噌や砂糖、納豆なども鑑真が中国から持ってきたと言われる。唐招提寺の西山明彦執事長によると、柿の木の並木も鑑真の弟子が日本に伝授したのだという。正岡子規に『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』という有名な句があるが、奈良県は、和歌山県に次いで柿の生産量が多い。
「日本の古文書にも、当時、日本にはすでに柿の木があったけれど、木を接木して増やす方法はなかった。鑑真和上のお蔭で柿の並木が日陰をつくり、柿の実は食用になる。医学や暮らしの面でも日本人は大変な恩恵を受け、今でも鑑真和上のご恩を忘れることはありません」と西山執事長は言う。
763年、鑑真は唐招提寺で入寂した。享年76。その死を惜しんだ弟子の忍基が、鑑真の像を造った。その彩色の乾漆像の容貌は今でも生き生きとしていて、晩年の鑑真の、奥深く安定した精神世界を髣髴させる。