空爆回避に努める
鑑真が奈良にさまざまな文化を伝えた千年余り後に、一人の中国人建築家が古都を守るために奮闘した。梁思成である。
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中国国家博物館で行われた梁思成銅像の除幕式(写真・段非平) |
1944年、米軍が日本本土を爆撃していたころ、国民政府の「戦区文物保護委員会」の副主任として重慶にいた梁思成は、米軍に対し、奈良と京都の爆撃を中止するよう提案した。梁思成が文化的建築のリストを作成し、その位置を軍用地図の上に記したため、千年の古都は守られたと言われている。それゆえに梁思成は、今でも日本の建築界、文化界から「古都の恩人」と称えられているのだ。
1963年、鑑真の円寂千200年を記念するため、梁思成は周恩来総理の指示を受け、江蘇省揚州の大明寺に鑑真記念堂を建てることになった。彼は何回も奈良へ視察に行き、最後に唐の建築の風格を残す唐招提寺の金堂を模して鑑真記念堂を設計することにした。
2007年12月、いまは故人となったユネスコ親善大使の平山郁夫・日中友好協会名誉会長が、人類共通の文化遺産を守った梁思成をたたえ、奈良に彼の銅像を建てるよう提案した。銅像は今年末に完成する予定で、中日友好の新しいモニュメントとなることだろう。
人民中国インターネット版 2010年11月