今問題多発の日本外交 かつて瞠目に値すケースも
105年前、中国東北部の一部の地域は「千里にわたり赤地同然となった」。人口わずか4400万の日本が不義の戦争で人口1億4100万の帝政ロシアを破ったのである。105年後、ロシア大統領が日本と領有権を争っている南千島群島を視察。日本は駐ロシア大使を召還するという外交手段を使って、「強硬な姿勢を示した」。それから1週間も経たないうちに駐ロシア大使はモスクワに戻ったが、ロシア外交アカデミーのパノフ学長は、「日本の外交水準は低過ぎる」とはっきりと述べた。また、日本は一部の兵力の優勢によって日露戦争に勝利したのだとも話している。パノフ学長はイタルタス通信の取材に応え、「ロシアと日本は150年の付き合いがあり、戦争勃発を含む数々の出来事が発生したが、大使召還という事態に発展したことはかつてない。これは日本の外交技術がいかに低いレベルまで落ちたかということを表している。日本の外交政策は完全に袋小路に入り込んでいる」と語った。
各国のメディアが日本の「外交破産」を取り沙汰し、日本のメディアも「外交の方向性を見失った」ことについていろいろと過去を振り返っているが、近代の日本の外交で瞠目に値すべきことといえば、1972年の田中角栄首相の訪中だろう。当時、ニクソン米大統領が「頭越し外交」で中国を訪問したことにより、日本はプレッシャーを感じた。そこで田中角栄は首相に就任すると直ちに中国を訪問し、米国より先に中国との国交正常化を実現させた。これとニクソン大統領の訪中は世界の構造を変えた。外交史の上では常にニクソン大統領が主役になっているが、実は田中角栄の貢献もあったのである。
戦後の日本の外交は「米国の影に過ぎない」と形容されるが、中国との国交正常化は日本が率先して行ったことであり、今日の言い方で言えば、革新的かつ実践的な精神にあふれている。こうした行為は米国を「不機嫌」にしたが、日本及び世界の根本的な利益には合致していた。
残念なことは、田中角栄のような戦争を経験した世代が次々とこの世を去り、あるいは外交の舞台から退出していることに伴い、歴史や国際関係への深い理解に欠けた若い政治家が外交の最前線に立ち始めたことである。「猛言」によって外交争議を引き起こしている日本の新しい外務大臣であり、60年代生まれの若手政治家である前原誠司氏に対し、著名な政治評論家の植草一秀氏はまったく遠慮なしに「外交能力ゼロ」の外務大臣だと批評している。『朝日新聞』(11月3日付)も菅直人首相は外交面での長期的視野に欠け、「舵のない日本という船はいま、波の荒い外交水域を航行している」と述べた。
共同通信は11月初め、「日本の外交は方向性を見失っている」という評論を発表。日本が方向性を見失った主たる原因は安全保障の根幹である日米同盟に揺らぎが生じたためであり、「普天間飛行場移設問題によって日米関係は深く損なわれた」と論じている。また、日本の「守り」が緩めば、周辺国が手を伸ばそうとするのは当然だと述べ、日本は「財力」という魅力をなくしつつある上、外交基軸のない民主党政権に変わり、「日米同盟を選択するのか、それとも国連を中心とする国際協調なのか、あるいはアジア重視なのか」を迫られていて、菅内閣はすでに「外交に不慣れ」を口実にすることはできないと指摘する。