坂本さんは中国語を理解できず、記者もまた日本語が分らない。去年来た時は、山崎さんが通訳してくれたが、今となってはお互い英語で簡単なコミュニケーションを取る事しかできなくなってしまった。しかし、言葉を交わさなくとも、我々には通じ合う思いがあった。山崎さんの遺影に見る温かい笑顔を目にし、長い歴史の跡が刻まれた鉄製の救急箱を目にし、遺体を寄贈するという証明書を目にして…言葉ではとても言い表すことができないけれど、坂本さんがカメラを構える瞬間、皆の心には同じ思いが通っていた。
坂本さんの撮影のために父の形見を探していた山雍薀さんは、自分でさえも知らないようなものをたくさん見つけたと言う。例えば、山崎さんの寝室の箪笥の中に、患者から寄せられた感謝の手紙や感謝の意を込めて送られた「錦旗」が一杯詰まっていた。これらの品物を山崎さんは決して人に見せることなく、大切に閉まっていたのだ。山雍薀さんは「父は済南に来て73年、仕事や生活が苦しい時期もあった。1983年、日本の和歌山県と済南市は姉妹友好都市の提携を行った。この二つの都市を結びつけるため、父は自腹で交通費を出し、何度も何度も行ったり来たりしていた。また当時、彼は当時の日本の中曽根康弘首相に手紙を書いたことがあった。中曽根首相は彼に返事を書き、『大道無門』という鮮やかに大書された四文字を贈った(現在は額縁に入れられ客間に飾られている)。父は人生の大半を済南に捧げ、数え切れないほどの栄誉をもらっていたのだ。今になって、私たちはやっとそれらの栄誉の数々を目にすることができた。」