300年以上に渡る芸妓の歴史には数多くの名妓が登場し、彼女達の中には、日本の歴史に重要な影響を及ぼした者もいる。「勤皇芸者」とまで讃えられた中西君尾は、その中の代表的な一人である。
勤皇芸者、中西君尾
君尾は武士の家に生まれたが、父親が仇敵に殺害され家は没落し、芸妓の世界に入ることを余儀なくされた。彼女はよく、「魚品」というお茶屋のお座敷に出ていた。当時、京都では幕府勢力と維新派が激しい争いを繰り広げており、両派の人物は京都の色街を隠れ家とし、密談の場とすることがよくあった。維新派の中心的人物の多くは「魚品」の常連客で、後に明治政府で外務大臣と大蔵大臣を歴任する井上馨もその一人である。
井上馨は君尾に一目惚れをして、二人の関係は急速に発展し、離れられない仲になった。程なくして、京都における維新志士の弾圧の責任者であった幕府高官、島田左近も君尾を見初めた。普通の芸妓からすれば、権勢をふるう島田左近の妻や妾の座に納まることは願ってもない幸運なのだが、君尾は心を動かされることなく、島田の求婚を拒絶する。
島田が君尾に求婚したことを聞き、井上馨は君尾のもとに人を遣って、維新の大局のために島田の求婚を受け入れ、機を窺って幕府の機密を探って欲しいと伝えた。君尾は涙ながらに、恋人の頼みに応じて島田に嫁ぎ、島田の寵愛に乗じて大量の幕府情報を聞き出した。彼女の助けで、多くの維新志士が幕府の追っ手から逃れることができた。
その後、維新志士は、彼女のもたらす情報によって、島田の暗殺に成功し、維新派の大敵を排除して、幕府勢力に甚大な打撃を与えた。