日本は宗教に対してとても寛容な国である。週末には、よくそれぞれの信者が勧誘にやってくる。勧誘の手法もさまざまだが、最も多いのは、ポストにチラシを入れる方法である。それらの多くは印刷が綺麗で、文章や絵、写真等も効果的に掲載されている。しかし、「文革」の洗礼を受け、更に日本で「オウム真理教事件」の全容を知る我々のような人間にとって、これらの新興宗教は、非常に理解に苦しむものと言える。
北海道にある斜里教会
宗教が民間の生活習慣と一体になったとき、その宗教は民衆に受け入れられたと見なすことができる。日本では、年末になると多くの店でクリスマスツリーを飾っている。日本にそれほど多くのクリスチャンがいるとは思わないが、この様子から、少なくともみんなキリスト教を嫌ってはいないと考えられる。また、多くのホテルは教会を持っているのだが、それは宿泊客に日曜礼拝に参加させるためのものではなく、多くの人に結婚式を行ってもらうためのものである。結婚式には、披露宴がつきものだ。教会に出向いて結婚式を挙げるより、教会を持つホテルで結婚式を挙げた方が、その後場所を変えずに、すぐ披露宴を行えるというわけだ。
元旦前には、多くの人が不要になった写真やラブレター、記念品、ぬいぐるみ等を寺院に持ち込んで供養してもらう。供養とは、和尚さんがお経をあげ、それらの物品を山奥深くの洞穴に持っていくか、それができない場合はお焚き上げをすることである。写真やラブレターには当時の思いがこもっており、不要になったからといっていい加減に処分してしまうと、その思いに失礼にあたる。また、ぬいぐるみ等は布製だが、それぞれ魂が宿っており、ゴミとして捨てることはできない。寺院でもらってきたお守りや絵馬などはなおさらで、正しく処理しなければ、二度と神仏のご加護を受けられなくなってしまうため、やはり寺院に持っていく必要がある。
日本で新興宗教が次々と姿を現すのは、人間の欲が多すぎて、解決すべき問題が複雑なせいかもしれない。統計によれば、2011年現在で日本には18万2527もの宗教法人が存在している。日常生活の中でも、週末の勧誘はもちろん、誰それが何の宗教を信仰しているというのを耳にしたり、書店で売られているベストセラーでさえもどこかで宗教とつながったりしている。日本で名の知れた宗教団体のトップは、まだ若いが、その著書は600冊以上、その腕には20万ドルもする時計をはめている。その服装も贅沢のきわみで、大企業家や政界の実力者よりもさらに心地よい生活を送っている。