文=コラムニスト 陳言
バブル景気の始まりの年と言われる1987年、日本の地価総額は1,673兆円に達した。その頃中国は、国策である改革開放(1978年~)実施からすでに10年近くが過ぎようとしていたが、中国国民には、地価や不動産価格の概念がまだ生じていなかった。私は当時、日本に留学中であったため、1億人総浮かれのバブルとその崩壊を目の当たりにしている。その経験や教訓を、今、同じくバブルの真っただ中にいる中国人達に伝える事が出来るかも知れない。
◆(2)尾上縫事件(東洋信用金庫事件)
日本の不動産バブルと言えば、尾上縫の名前を挙げない訳にはいかないだろう。
尾上縫(81歳)今はただの服役中の老女に過ぎない。だが、20数年前、当時60歳近くであった彼女は、「天才相場師」ともてはやされ、巨額融資を引き出し、詐欺事件を起こし、東洋信用金庫を破綻させた人物として日本を震撼させた人物だ。
いわゆるバブルとは、結局は収益を増やしていくための循環に過ぎない。土地を持っている人は、それを担保に銀行から融資を受けることができ、それを元手に株・土地投機が出来る。負債は雪だるま式に膨らみ続け、誰も止めることが出来なくなり、やがてそれが崩壊へとつながる。
尾上縫もそうした一人だ。1986~1991年の5年間、尾上縫はまず経営していた料亭を担保に、銀行融資を受け、それを元手に各種財テクで資産を増やしてきた。株や土地に注ぎ込むために、各種金融機関から借り入れた金額は、延べ2兆7736億円になるという。2兆7736億円という金額は、大阪市財政予算2年分に当たり、世界一高くついた関西国際空港の建設費用を上回るものであった。
尾上縫は全ての金融機関の上客になったといっていい。ある新聞社の経済記者によると、尾上縫が一番波に乗っていた頃、銀行の中には、彼女の料亭の一角にデスクを構えるほどだった。銀行職員が朝から来て掃除をしていたほどだ。現金が必要になると、尾上縫は料亭内のデスクの職員にその旨を伝えるだけで、すぐに銀行から現金が送り届けられるという至れり尽くせりの状態だった。
当時、尾上縫が銀行に支払う金利だけでも毎年1300億円以上で、1日当たり2~3億元になっていた。それほど巨額な利益を銀行にもたらす顧客は日本でも彼女だけだったはずだ。彼女の料亭内のデスクに座る銀行職員の地位は、支店長よりも上であった。なぜなら一般の支店が稼げる金利収入は1カ月でせいぜい数億円といったところだからだ。